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2021年7月8日(木)
マタイの福音書 6:12 12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
【ポイント】 ①負いめのある人たちを赦しましたか? あなたは日々、苦手な人(嫌いな人)、自分に意地悪をする人、けんか別れしている人など、人間関係が悪くなってしまっている人を赦したり、和解したりすることについて熱心に取り組んでいますか。今日の祈りは、そのような人の祈りであることが分かります。
私が「主の祈り」を習慣的に礼拝の中で唱和することに違和感を覚えるということをお話ししてきましたが、今日の個所は特に違和感を強く覚える箇所です。なぜなら、自分自身が積極的に他者の罪を赦す取り組みをしていないのに、この祈りを何の葛藤も覚えず唱和していた時の鮮明な記憶があるからです。また、教会の中に分派、分裂があったり教会で、教会員にその自覚があるはずなのに、平然とこの祈りを祈っている姿を見かけることもあります。
多くの人は、自分が他者に罪を犯していることに気づかないことはありますが、他者が自分に罪を犯していることについては大変敏感い反応するものです。つまり、私たちは常に自分に罪を犯していると感じている人をはっきりと認識しているということです。であるとしたら、神様がその場で自分の祈りを聞いている自覚、そして、自分が他者を赦すことができていない自覚があれば、この祈りを祈ることに躊躇を覚えるはずです。躊躇を覚えないとしたら、神様がすべてをご存じであり、その方はリアルタイムで私たちの祈りを聞いてくださっていることを信じていない可能性があることになってしまいます。
特に、今日の祈りについては続きがあります。多くの人は主の次の13節で終わると考えていますが、文脈的にはイエス様の教えは続いています。14節、15節を見てみましょう。「14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」イエス様の念押しのような、14,15節のことばを聞くと、今日の祈りがいかに重要であるのかが分かります。
教会での主の祈りの唱和を禁止するべきだとは言いません。しかし、唱和する際に、心からの賛美、感謝、悔い改めを覚えながら、目の前にいらっしゃる天の父に語りかけるのでなければ、その人、そしてその教会の中に「信仰の形骸化(宗教化)」が起きている可能性があるのです。そのような空しい行為は、決して天の父を喜ばせることはできないのです。むしろ、「神様、私はどうしても赦せない人がいます。ですから、この祈りが祈れないのです。罪深い私を助けてください」と正直に祈るほうが、健全な信仰の歩みと言えるのではないでしょうか。
よく考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷 信道