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2017年7月12日(水)
【通読】
マタイの福音書 11:25-30
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。27すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
【ポイント】
①実は「疲れ」「重荷」を感じることが大切
イエス様は、パリサイ人、律法学者らが聖書の律法以外の様々な細則を人々に課し、人々がその重荷に耐えきれなくなっている様子をみて心を痛められました。マタイ9章36節でイエス様はこのように語られていましたね。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」そして、今日の箇所では、イエス様はそのような人々を「疲れた人、重荷を負っている人」と呼ばれたのです。イエス様は人々をこのように見、あわれまれ、福音を伝えておられたのです。
実は、律法をもたない私たち(異邦人)を同じような重荷を抱えています。使徒パウロは、ローマ人への手紙3章20節でこのように教えています。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」つまり、律法の問題は、人々に罪の意識を覚えさせ、罪の中に閉じ込めてしまうのです。パウロはまたロマ書2章でこのようにも教えています。「14――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。15彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。――」現代に生きる私たちは律法を知りませんが、神様から与えられている良心に反する事をするときに、強い罪の意識に苛まれ、自分を責めたり、さばいたりしているのです。
ですから、異邦人である私たちも、自分の罪の意識、そこから来る心の重荷をイエス様の前に置くことが必要なのです。時々、罪の意識が極めて薄い人がいるようです。そのような人は例えば「十戒」(出エジプト19章)、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(マタイ22章)というイエス様の戒めに真剣に取り組むのです。1週間もしないうちに、たった数個の戒めでさえも完全に実行できない自分の不完全さ、罪深さに気がつくでしょう。
ですから、律法は決して悪いものではなく、私たちに罪の意識を与え、罪の赦しを求めさせる重要なものなのです。パウロは律法の役割について極めて分かりやすく教えています。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)罪の重荷に疲れ果てていなければ、イエス様を真剣に求めようとしないのです。
ということで、もう一度自分の罪深さについて、その重さについて思い返してみましょう。そして、イエス様だけがその重荷、疲れから解放してくださる方であることを再確認してみましょう!
大谷信道