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2020年7月13日(月)
へブル人への手紙 4:3-4 3信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。
【ポイント】 ①信じた私たちは安息に入る! 少し分かりにくく感じるところですが、ポイントは明確です。イエス・キリストの福音を信じる者は、神様の約束されている「安息」に入ることができるということです。
しかし、ここでは注意が必要です。ライフチャーチでは繰り返し学んでいますが、「イエス・キリストの福音を信じること」とは、「神様の存在を信じること」でも「天国に行く方法を理解すること」でも「バプテスマ(洗礼)をうけること」でも「毎週教会に通うこと決めること」でもありません。
「イエス・キリストの福音」とは、イエス様のみことば、生き様、十字架での苦しみ、完全な死、復活によってはじめて100%明らかにされた、唯一の神様の私たちに対する愛の福音であり、「イエス・キリストの福音を信じる」とは、唯一の神様を愛する決意をすることなのです。神様との愛の関係こそが「安息」であり、私たちの永遠の平安なのです。
反対に言うと、神様(キリスト)との双方向の愛の関係が築かれていなければ、信仰告白の文章を読もうが、信仰決心の祈りをしようが、救いについて理解しようが、バプテスマを受けようが、毎週教会に通おうが、誠実に収入の十分の一をささげようが、それは神様にとっては、全く意味の無い行為となってしまうということなのです。
神様(キリスト)を愛するとはどのようなことなのでしょうか。これも、イエス様がはっきりと語られていますね。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)あなたの信仰の中心が「自分の祝福」になっていることはありませんか。そのような信仰を愛と呼ぶことはできないですね。愛と呼ぶことができない信仰は、イエス様の教えられる信仰ではないのですし、それがそれが信仰でないのなら、そこに「救い」も「安息」もないのです。とても、恐ろしいことですね。
ですから、使徒パウロはエペソ教会のクリスチャンたちのために次のように祈っているのです。そして、この祈りは、私たちに対する祈りでもあるのです。「14こういうわけで、私はひざをかがめて、15天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。16どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。17こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3章)
アーメン
ライフチャーチ 大谷信道