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2020年7月14日(火)
へブル人への手紙 4:5-6 8もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。9したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。10神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
【ポイント】 ①「カナンの地に入ること」は「安息にはいること」ではない。 今日の個所、そして聖書全体を見れば分かりますが、カナンの地は「神様の安息(天国)」ではありませんでした。ですから、カナンの地は来るべき神の国の予型(影)ということができます。別の言い方をすれば、エジプトからの脱出(救い)と約束のカナンの地は、キリストの福音の予型(影)であると考えられるわけです(コロサイ2:17、ヘブル8:5、10:1)。
と言うことは、神様が本当に導き入れようとしているのは、目に見える、地上の特定の土地ではないということです。神様は、神様を愛し、最後まで信頼する者が神様の全き安息と平安に導き入れられるという霊的な事実を、目に見える方法で啓示されたということです。
ですから、例えば、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の中で、エルサレムを「聖地」であると信じ込んでいる(刷り込まれている)人がいるわけですが、それは間違った理解であるということができます。その原因は2つです。一つは、間違った聖書理解を教えていることです。二つ目は、その間違った教えを政治家(為政者)が神の名を語りながら悪用し、人々はそれが聖書の教え(信仰的な考え方)であると思い込んでいることです。そして、そのような現象は、イエス様のみことば無視したものであることを、少なくともすべてのクリスチャンは知らなくてはならないのです。
ルカの福音書17章 20さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。21『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。
ヨハネの福音書 4章 21イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネの福音書 14章 6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。7あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。
ですから、ポイントは極めて簡単でシンプルなのです。イエス・キリストとの愛の関係、信頼関係を深め続けて言うことなのです。その先に、神様の用意されているまことの「安息」があるのです。そして、その関係が深められていく中で、私たちクリスチャンは「神様を愛すること」だけでなく、「隣人を愛すること」へと導かれていくのです。そこに、まことの「神の国」があるのです。
ライフチャーチ 大谷信道