誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2020年7月16日(木)
へブル人への手紙 4:11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
【ポイント】 ①救いに努力が必要? 救いの獲得のために努力が必要であれば、イエス様の福音が恵みではなくなってしまうと理解しているクリスチャンは少なくありません。それでは、今日のみことば、イエス様の福音と矛盾しているのでしょうか。決してそうではありません。
夫婦の愛を例にして考えてみましょう。あなたが一人の人を愛し、その人もあなたを愛し、結婚の約束をし、結婚式を挙げたとします。「それでは「愛の決意」「愛の告白」「愛の約束」をすれば、何の努力をすることなく、自動的に愛に満ちた夫婦関係が築かれるのでしょうか。決してそのようなことはありません。互いに、多くの我慢、赦し、自己犠牲などの努力の積み重ねにより、互いの愛が深められて行くのです。むしろ、そのような努力の積み重ねが「愛」の証拠であるということができます。
これを、信仰に置き換えれば、ここでヘブル書の著者が教えていることは、ごく当たり前のことであり、イエス様の福音、恵みに矛盾する教えでもなんでもないことが分かるはずです。つまり、上の「愛」を信仰に置き換えると「信仰の決意」「信仰の告白」「信仰の約束」をすれば、何の努力をすることなく、自動的に神様との愛の関係が築かれることなどないことが分かるはずです。神様の約束を信じ、多くを忍耐し、隣人を赦し、自己犠牲を払うという信仰の歩みが、神様への愛、神様への信仰の証しになるのです。
さて、それでは、私たちの神様に対する信仰(愛)をどのように確認すればよいのでしょうか。私たちは、「時間とお金」が中心になっている世に生きているので、この2点で考えてみましょう。「週一日を惜しまずに主にささげていますか?」「収入の10分の1を惜しまずに主にささげていますか?」もちろん、この2点を律法主義的に行っていれば、主を愛している証拠にはなりません。しかし、この2点をいい加減にする人の中に、本当に主を愛している人が本当にいるでしょうか
神様への信仰と愛を確認する方法は、他にもあります。しかし、一番簡単なのはこの世で一番大切にされている「時間とお金」について考えることなのではないでしょうか。
マタイによる福音書6章 「24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
マルコの福音書12章 43すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。44みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
ライフチャーチ 大谷信道