デイリーディボーション 7月16日(火)

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デイリーディボーション 7月16日(火)

2019年7月16日(火)
マルコの福音書 12:26‐27 26それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。27神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
【ポイント】 ①イエス様の聖書解釈を信じる イエス様が引用された出エジプト記3章を前後を含めて見てみましょう。「4主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります』と答えた。5神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』 6また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」
「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」という神様の自己紹介は「私はあなた方の先祖たちが信じていた神である」という意味の他に「永遠の祝福の約束を与え、今もその祝福の中に生きているあなたの先祖たちが信じた神である」という意味が含まれているとイエス様は教えられているのです。
この解釈に違和感を覚える人がいるかもしれませんが、イエス様は決して強引な解釈をしているわけではありません。ちょっと考えてみましょう。アプラハム、イサク、ヤコブは地上での祝福を受けていないません。そもそも、神様が与えられたアブラハムという名前は「多くの国民の父」(創世記17章5節)という意味でしたね。それでは、アブラハムには何人の約束の子どもがいたでしょうか。イサク一人です。イサクはどうでしょうか。祝福の継承をしたのはヤコブ一人だけです。ヤコブには12人の息子がいましたが、地上での命を全うした時には、まだ「大家族」程度であり、決して「多くの国民」と言えるものではありませんでした。確かに、後から見れば、アブラハム、イサク、ヤコブがいなければ、イスラエルの民の繁栄はなかったわけですから、彼らが大変重要な存在であったことには間違いありません。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ当人たちはどうでしょう。もし、復活もなく、人間は死んですべてが終わるのであれば、彼らは約束は実現を見ることなく、その存在が消滅したことになります。しかし、イエス様は、神様はそのような空しい約束をしたのではないと教えているのです。祝福の約束を受けたアブラハム、イサク、ヤコブは今も生きていて、祝福の約束の実現を喜びのなかで見ているということなのです。神様は地上でははかない幸福を与える方ではなく、永遠の幸福(祝福)を与えられる方だということなのです。それが聖書の約束であり、神様の力(12節)なのです。
だから、私たちも永遠の祝福のための働きに意味を見出すのです。地上で人から祝福をうけて終わってしまう事柄ではなく、永遠に意味があり、永遠の価値を持つ事柄に、神様から与えられた肉体、時間を費やすのです。つまり、地上で人からの報いを受けることではなく、天上で神様からの祝福を受けることを楽しみにしながら、あきらめることなく主に仕えるのです。「多くの国民の父」という名前がつけられたアブラハムには、たった一人の約束の子しかいなかったではありませんか。おそらくアブラハムは自己紹介をするたびに、人からは変な顔をされたことでしょう。しかし、永遠を信じるからこそ、彼は惨めな思いの中でではなく、平安の中で地上での命を終えることができたのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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