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2020年7月17日(金)
へブル人への手紙 4:12-13 12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。13造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
【ポイント】 ①「心のいろいろな考えはかりごと」とは? 多くの人は、心の中の不道徳という意味での悪い考えだと思うかもしれません。もちろん、神様の前でそれらの悪い考えすら罪であることは、イエス様が教えています(例:マタイ5:8)。
しかし、ここでは文脈を見ると、ヘブル書の著者の頭の中にあるのは詩編95編であり、民数記14章であることが分かります。つまり、神様の救い(安息)の約束を信じることができなかった者たち、別のリーダーを立ててエジプトに帰ろうと企てた人々と同じ罪を犯してはならないという警告を読者に与えているのです。
エジプトを脱出したイスラエルの民がモーセと神様につぶやいた理由は、荒野での生活が苦しかったことにあります。脱出先が荒野ではなく、楽園であったとしたら誰も不満を言う人はいなかったかもしれません。しかし、この困難が人々の信仰の試金石となり、誰が神様を信頼し、誰が不従順であるのかを明らかにしたのです。しかし、この試練は、400年以上エジプトで暮らしていたイスラエルの民がまことの神を知り、信仰を増し加えさせるための訓練であったのです。
私たちクリスチャンにとっての地上での生活は、イスラエルの民の荒野によく似ています。天国(約束の地)の約束が与えられ、霊的にはすでに神の国に生きているわけですが、肉のからだで生きているという現実もあるわけです。ですから、私たちは、目に見えない約束に希望を置き、その約束を実現してくださる神様を信頼して地上で生きることが求められているのです。しかし、私たちは、荒野のような地上があるからこそ、神様の求められる信仰がどのようなものであるのかを知ることができるのです。多くの人に親しまれているヘブル書11章1節は、「信じれば成る!」というような、極めて肉的な自己実現を教えているのではなく、信仰とは神様(みことば、約束)を信じることだと教えているのです。「1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
ですから、「心のいろいろな考えはかりごと」とは、神様の約束を疑ったり、約束の内容を変えてしまうような企てであるということが分かります。牧師、進学者、教師は、イエス様の福音に何か加えたり引いたりすることは、神様の前に極めて大きな罪であることは聖書を見れば明らかであることを知るべきなのです。それは、聖書を自分で読むことができる現代のクリスチャンも同じです。教会で聖書に書かれていないこと(教理、伝統など)が教えられたり、行なわれていることを容認、黙認することは、同じく神様の前で大きな罪であることを覚えておきましょう。
ライフチャーチ 大谷信道