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2022年7月19日(火)
マタイの福音書 28章1-6節 1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。4番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。6ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
【ポイント】 ①私たちの信仰の原点 私たちはなぜイエス・キリストを信じ、愛することができるのでしょうか。それは、イエスは人間の罪の贖いのために、自らを犠牲の動物(神の子羊)としてささげ、その血(いのち)を罪の赦しの代価としてくださったからです。私たちは、このイエスの行為によって、父なる神と御子イエスが宗教的な文言としてでなく、本当に(本気で)罪深い私たちを愛していることが分かったのです。
しかし、私にとっては、イエスの十字架だけではイエスを神の御子(神)として信じ、愛する理由にはなりません。私がイエスが神であり、イエスを愛し、イエスを「イエス様」と呼んでいる理由は、イエスが復活されたことが時事であると確信しているからです。復活の事実がなければ、イエスは良くて「素晴らしい預言者」であり、普通に考えれば「嘘つき」です。復活という事実がなければ、イエスは他の思想家や教祖と何ら変わることがない、ただの人間であり、決して信仰の対象などにはなり得ないのです。
残念ながら、多くの人が「この人を神として信じる理由はあるのか?」という単純で簡単な質問を後回しにして「ご利益」に飛びついてしまうのです。「信仰」と言いながら自己の利益のために神を利用しているに過ぎないことに気が付いていないのです。人々が感じている「ご利益」などというものは、心理学やカウンセリングなどでも十分に得られるものですから、教祖は神である必要はありません。結果として、人々は喜びながら、勝手に信じ、多額の献金などをし、教祖は金や権力を手に入れ喜ぶのです。結局、そこに集まるすべての人は、相手を自分の利益のために利用し、喜んでいるわけですから、何の問題もないように思えるかもしれませんが、教祖は自分が神であると嘘をついているわけですから、社会的に許されるものではないのです。
この悲劇を止めるためには、目の前にどんなご利益をちらつかせられても、信じないを呪われるというような恐怖をちらつかせられても、その「神と呼ばれているもの」が信じるに値するものなのか、愛するに値するものなのかを論理的な思考を用いてしっかりと考えることが必要なのです。そして、ほとんどの場合、この論理的な思考によって、教祖が単なる人間であることに気づくことができるはずなのです。
キリスト教の場合、この論理的な思考の最重要部分(事実)が復活なのです。もちろん、論理的な考察の結果、イエスの復活は事実でないと結論付ける人もいることでしょう。しかし、論理的な考察の結果、イエスが神であると結論付ける人もたくさんいるのです。
「信じられないことを信じる」ことが信仰ではないのです。「理性、知性、論理的な思考を停止させること」も信仰ではないのです。むしろ、その反対なのです。私たちクリスチャンは、聖書の記述が事実であるかどうかを論理的な思考を用いて検証し、事実であろうと確信できたことがらをベースにして考えた結果、イエスが神の御子であり、神であると信じているのです。もし、他の新興宗教の信者と同じように、ご利益に目がくらんで(天国に行きたい、罪をゆるしてもらいたい)、盲目的にイエス・キリストを信じているのであれば、是非、この視点からイエスを見つめ直してほしいのです。
ライフチャーチ 大谷信道