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2020年7月20日(月)
へブル人への手紙 5:1 1大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。
【ポイント】 ①イエス様が大祭司であることの意味 昨日の礼拝では、イエス様が大祭司であることの意味をいくつか学びましたね。その一つは、イエス・キリストが神様と私たちの間の唯一の仲介者(とりなしをする者)であるということです(参:ヘブル8:6)。つまり、私たちの天の父の間に入ることができるのは、キリストのみであるということです。同時に、それは、私たちは天の父との関係において、その他の何者(天使、マリア、聖人、牧師など)を介在させてはならないことも意味しています。
残念ながら、私たちは、多くのクリスチャン(教会、教団教派)がこの真理を無視してしてきたという事実を知っています。イエス様の福音を無視した、勝手な教えが「キリスト教」の中で、いつの間にか市民権を獲得し、それが伝統となり、その間違った福音が正しい福音であると教えられ、信じ込んでしまっているクリスチャンが、現代においても大勢いるのです。
この状態は、先日学んだ、民数記13-14章に記されているイスラエルの民にとても似ていることに気が付かなければなりません。さらに、神様の約束を信じないこと、神様のことばが預けられたモーセたちを信頼しない、イスラエルの民が全員、荒野で死んでいったことも忘れてはならないのです。これが、ヘブル書の著者の読者に対する警告なのです。
ですから、イエス様の福音を聞き、神様の愛を知り、神さを愛する決意をした私たちクリスチャンが、大祭司イエス様がいてくださることに喜び、真の平安を覚え、神様との愛の関係に満足することができていないとしたら、私たちは、荒野で死んでいったイスラエルの民ととても似ている不信仰の状態に陥っていることに気が付かなければならないのです。
エジプトでの奴隷状態から解放された直後のイスラエルの民のつぶやきは民数記11章にも記されています「4また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。5エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。6だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』」
わたしたちの祈りは、イスラエルの民のつぶやきのようになっていることはありませんか?イスラエルの民が「肉をください」「魚をください」「きゅうりをください」「スイカをください」「にらをください」「玉ねぎをください」「にんにくをください」と祈っている姿を見たら、「馬鹿じゃないの!奴隷状態から救われたことの感謝はどこに行ったの?」と思うことでしょう。では、自分の祈りはどうでしょうか?自分では真剣に求めているつもりでも、客観的にみれば、つぶやきを変わらないことにはなっていないでしょうか。決して他人事ではありませんね。
ライフチャーチ 大谷信道