デイリーディボーション 7月21日(土)

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デイリーディボーション 7月21日(土)

2018年7月21日(土)

コリント人への手紙 第一 7:36-40
36もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。37しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行なうことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。38ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。39妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。40私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います。

【ポイント】
①難しい箇所
36-38節は翻訳が大変難しい箇所のようです。新共同訳聖書を見てみましょう。

36もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。37しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。38要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

新改訳聖書の主語は「娘の父親」としていますが、新共同訳聖書は「娘の婚約者」を主語にしています。どちらの翻訳にもきちんとした根拠があります。「娘」と訳されている言葉の意味はいくつかの可能性があるそうです。その主なものは1)男性の婚約者、2)男性の娘、です。新改訳聖書は2番、新共同訳聖書は1番の訳語をとっているわけです。でも、意味は全く違うものになってしまっています。英語の聖書も翻訳が別れているようです。

25節でパウロは「処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。」と語っていますから、ここでのパウロの教えは絶対的なものでも、すべての人に当てはめるべき普遍的なものでもないわけです。ですから、翻訳の多様性も許容していくことが大切だと思います。

繰り返し学んでいますが、ここで重要35節のパウロのメッセージです。「ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」これは、パウロの個人的な意見ではなく、イエス様の命令なのです。私たちはクリスチャンは「ひたすら主に奉仕できるため」に、自分の生活を整えていくことが求められているのです。結婚するにしろ、しないにしろ、大切なのはこの1点なのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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