デイリーディボーション 7月22日(月)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 7月22日(月)

2019年7月22日(月)
マルコの福音書 12:38-40 38イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、39また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。40また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
【ポイント】 ①パリサイ人、律法学者の堕落から学ぶ 神殿の運営を支配的に行っていた祭司を中心とするサドカイ人に対し、パリサイ人の活躍の場は各地の「会堂・シナゴーグ」であったと考えられています。イエス様の指摘から、パリサイ人は、神殿、議会を中心として地位、権威を振りかざす傾向のあるサドカイ人を批判しながら、自分たちも「偉くなりたい」「高い地位を得たい」という誘惑に負けてしまっていたことが分かります。
「長い衣」は、宗教指導者としての権威を持っているかのような雰囲気、自分を偉く見せるための演出の道具となっていたようです。そして、人々もこの演出に「ありがたみ」を覚えたりするのです。現代の教会の聖職者の服装を見ると、いかに多くの人(教派)がイエス様の戒めに不従順であるのかを観察できるかと思います。ライフチャーチで牧師がガウンを着たり、スーツを着たりしないのは、このような箇所の実践でもあるのです(でも初めての方が誰が牧師が分かりにくいという欠点があるかもしれませんね)。
現代の教会でも、講壇が一段高くなっていたり、巨大な講壇がステージの中央に置かれていたり、講壇の左右の大きな椅子に牧師と執事(長老)が座っていたりしますね。古い時代の王座を思い起こさせますね。一段高いステージ、立派な椅子などは、人間的な権威の象徴ですね。牧師も長老も礼拝者の一人であり、信徒全員が祭司(1ペテロ2:9)なわけですから、特定の人が高い場所に立ったり、大きな椅子に座ったりすることはイエス様の教えに不忠実な悪しき慣習であると思います(一段高いほうが、後ろの人から見えやすいという利点はあると思います)。
「やもめの家を食いつぶし」とは、現代とは違い経済力を持たない(きちんとした職業を持つことができない)、社会で最も弱い存在であった未亡人を大切にしなかったり、そのような人にも献金を要求するような態度を指していると思われます。
「見えを飾るために長い祈りをします」も現代の教会にもはびこっている悪しき習慣だと思います。「立派な祈りができる信徒」=「信仰的な信徒」のような雰囲気はないでしょうか。祈りの内容、祈りの態度が神様に向けられたものではなく、人に向けられたことば、人に向けられたパフォーマンスになっていることはないでしょうか。イエス様がそのような空しい祈りに心を痛めていたことを私たちは本当に理解しているでしょうか。
律法学者に向けられた戒めは、現代の私たちに向けられているものです。もし、同じ間違いを犯していることに気が付いたら、その行為にどれだけ長い伝統や習慣があったとしても、それを改めることが求められていることを知りましょう。イエス・キリストを信じると告白しながら、イエス様の命令よりも、キリスト教の伝統や習慣が優先するようなことはあってはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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