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2021年7月26日(月)
マタイの福音書 7:3-5 3また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。4兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。5偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
【ポイント】 ①「神の国とその義」を求める 先週の金曜日に、神の国に生き、神様の前での正しさを実践したい人の生き方の1つは「さばかないこと」だと学びました。残念ながら「さばくな」というイエス様の命令があるのに、この世において、教会において「さばき合い」が無くなることがありません。今日は、その理由について学びます。
今日の個所には「さばき合い」が無くならない決定的な理由が記されています。それは「自分は正しい」と思っていることです。イエス様は、この状態を「自分の目の中の梁には気がつかない」という比喩を用いられています。「自分を棚に上げる」という慣用表現がありますが、自分の問題点に気づいていなかったり、気づいていてもそれを無視して、全く同じ問題について他者を批判するということは、この世の常なのです。
しかし、私たちクリスチャンはそうであってはいけません。私たちは、自分の罪深さに気づかされた者であり、イエス様の十字架での贖いによって、その罪を赦された者だからです。自分の不完全さを棚に上げて、他者をさばいてしまうということは、イエス様の十字架を無意味にすることになってしまうからです。
とはいえ、クリスチャンの人が、一度「自分は正しい」「自分は聖書的である」と思い込んでしまうと、視点を変えることは、確信(思い込み)が強ければ強いほど難しくなってしまいます。
そこで、重要なことは「議論」「批判」が起きときに、その先に何があるのかを考えましょう。その議論、互いに批判しあうことによって、教会が祝福を受けるのかどうか、その場にいらっしゃる神様がその様子を喜ばれているのかを考えるのです。大変難しいチャレンジですが、そこには常に自分の罪を赦してくださった神様がおられるのです。
ライフチャーチ 大谷 信道