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2022年7月26日(火)
マタイの福音書 28章16-17節 16しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。17そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
【ポイント】 ①信仰の分かれ道は復活を信じるか否か 17節に興味深い記述を見ることができます。それは「しかし、ある者は疑った」という一文です。直前の「彼らは礼拝した」の「彼ら」は11人の弟子だと思われます。ですから、「ある者は疑った」の「ある者」は11人の弟子以外の人々であったと思われます。16節の記述からはイエス様が指示された山に登ったのは11人の弟子だと思われますから、「疑った」のはその場にいなかった人々であると考えることができます。
一方、マルコの福音書の16章14節には「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」とありますし、ヨハネの福音書20章25節でトマスは「「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」ともありますので、11人の弟子たちの全員が、イエス様の復活をすぐに信じたわけではなかった可能性もあるわけです。
しかし、イエス様の復活を疑った者がいたということは重要な事実だったと考えます。人間の常識や経験をはるかに越えた出来事を、全員が一度で納得し、受け入れることができたという方が、事実としては疑わしいからです。私たちの信仰の根拠はイエス様の復活です。つまり、イエス様の復活が事実であれは、イエス様はご自身が示された通り、神の御子であり、神であることの証拠になるわけです。神様は唯一の方であると信じているユダヤ人が、人のかたちをとって来られたキリストが神であると理解し、受け入れるためには、決定的な証拠が必要であったと思います。たとえ、決定的な証拠を目の前に示されたとしても、それまで信じていたことを捨て、イエス・キリストが神であることを受け入れるには、それなりの時間も必要だったことでしょう。
繰り返し学んでいますが、その神がご利益を与えることができる存在なのか否か、人生を捧げることができる存在なのか否かを見極めずに、ご利益だけを期待して信じるような人が大勢います。そのような信仰とも呼べないような信仰よりは、疑ったり、葛藤を覚えている状態のほうがずっと本当の意味での信仰に近いのではないでしょうか。
ただ、イエスを神の御子、神ご自身として信じるだけの十分な証拠が提示されている場合には、だらだらと先延ばしすることなく、信仰の決断を下すことも大切です。
ライフチャーチ 大谷信道