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2021年7月3日(土)
マタイの福音書 6:9-10 9だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。10御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
【ポイント】 ①「主の祈り」は唱和するための祈りではない イエス様は「こう祈りなさい」と命令されていますが、「礼拝の中で祈りなさい」とか「この通りに唱和しなさい」と命じられていません。だとすると、日本の多くの教会の礼拝の中で「主の祈り」を唱和しているのでしょうか。
私は、個人的にはここにも「宗教が好きな人間(わたしたち)」の特徴が現れているのだと理解しています。同じ文言を唱和するという行為は、いかにも宗教っぽい感じがする行為ですね。ですから、多くのクリスチャンが、自分たちの礼拝が宗教らしくみえる(正式なものと感じる)ためには、主の祈りや祝祷などが必要だと思っているのかもしれません。ちなみに、独裁国家や、軍事教育を行っている国で、愛国心を煽るために、何らかの文言を唱和させている風景を見ることがあります。戦前、戦中の日本では「教育勅語」でしょうか。
「内容が極めて大切なものだから、教会で唱和することはよいことではないか!」と考える方もいらっしゃるでしょう。しかし、数年前にある幼稚園で「教育勅語」を園児たちに唱和させていることが話題になりました。多くの批判がありましたが、園長さんは、内容が極めて大切だと確信していたからこそ、園児に唱和させたのでしょう。自分たちが良いものだと感じていても、客観的に見ると異様に見えることがあるのです。ただ、私は異様に見えることはやめたほうが良いという理由で礼拝の中で主の祈りを唱和することを止めるべきだと主張しているのではありません。
イエス様は、祈りは大変個人的なものであると教えられています。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(6:6)イエス様は、祈りの本質は自分と天の父の会話であると教えられているのです。
あなたは、主の祈りを祈るときに、その内容の一つひとつを自分自身の切なる願い、告白、約束として、天の父に語っているでしょうか。本気で願っていないことを神様に語りかけることは、大変空しく、主の御名をみだりに唱えることにはならないでしょうか。天の父はあなたの目の前で、あなたの祈る言葉を真剣に聞いてくださる方です。
「主の御名があがめられること」「御国が来ること」は、あなたの人生の中で何番目に重要な願いですか?礼拝などで会衆によって主の御名があがめられている姿を見ることに、どれほどの喜びを覚えていますか? よく考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷 信道