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2023年7月5日(水)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 15章1-2節 1私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
①これも教会(キリストを愛する者の群れ)の話 とにかく覚えておかなければならないことは、パウロの手紙を読むときに、パウロはローマの教会のメンバーに手紙を送ったという事実です。つまり、パウロの頭の中に「イエス・キリストの御心に沿った教会(キリストのからだ)の建て上げ」という大命題があったということです。別の言い方をすれば、「キリスト教教理」とか「個人的な信仰の成長」などというテーマについて手紙を書いているのではないということです。
ですから、今日の個所を読むときにも、パウロが健全なキリストのからだである教会の姿を頭の中にはっきりと思い描きながら、同時にこれまで見聞きしてきたローマ教会の現状を重ね合わせながらメッセージを送っているということなのです。まず1節の「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。」ですが、言うまでもなくヨハネ13:34の「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」、ヨハネ13:14の「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」などのイエス様の命令の反映に他なりません。キリストのからだである教会は、制度によってでも、建築物によってでもなく、イエス・キリストを信じる者が、キリストの命令を実践する中で「愛」によって建て上げられて行くのです(エペソ4:16)
次の「自分を喜ばせるべきではありません。」という命令も極めて重要なものです。残念ながら、この世のほとんどの宗教の存在理由は、それを信じる人が「自分を喜ばせる」ことにあります。つまり、多くの宗教を信じる人の目標、目的は神的な存在を利用して「ご利益(願いの成就)」や「自己実現(夢の実現)」を手にすることなのです。たとえ、それが崇高な思想の体現に見えたとしても、それは「崇高な人間になること」を望んでいる人の自己実現であることは否定できないのです。私たちクリスチャンも他人事ではありません。たとえ、信仰の入り口はさまざまな願いの成就だったとしても、神様の愛に触れ、神様の愛を受け取った私たちは、自分を喜ばすことではなく、神様の愛に応答することが自分の喜びであることに気づくのです。これは、子どもが成長し、精神的に成熟してくると、家族を助けることに喜びを覚えるのと似ています。社会においては、会社に養ってもらう状態から、会社に利益をもたらす社員になりたいという責任感が芽生えてくるのにも似ています。そもそも、神様が造られた人間は、「自分を喜ばすこと」だけでは、人生の目的や原動力を感じられなくなってしまう生き物なのでしょう。
信仰の歩みの入り口は、祈願の成就、自己実現であることは決して悪くも、間違ってもいません。しかし、いつまでもその状態のままであることは、家庭で言えば、子どもが何十年経っても子どもの感覚のまま、社会では、社会人になって何年経っても新入社員の感覚のままであるのと似ていて、決して健全な状態とは言えないのです。パウロが教えているように、私たちクリスチャンも、それぞれの歩みのペースがあって良いわけですが、「自分を喜ばせることからの卒業」という目標やビジョンを持つことが大切なのです。
ただ、教会においては、これは実社会にあるような「競争」は必要ありません。パウロの言葉通り、教会の中には「力ある者」「力のない人たち」が混在していて良いのです。熱心に奉仕活動に参加し、無理して成長の努力をする必要もありません。繰り返しになりますが、大切なことは、「自分を喜ばせることからの卒業」という目標やビジョンを持つこと、教会に集う全員が健全なキリストのからだの建て上げの方向に心を向けていることなのです。
ライフチャーチ 大谷信道