デイリーディボーション 7月5日(金)

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デイリーディボーション 7月5日(金)

2019年7月5日(金)
マルコによる福音書 11:27-28 27彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。28そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
【ポイント】 ①教会における「権威」とは? 教会の歴史振り返るときに、ローマカトリック教会の最大の問題点の一つは、教会組織自体、そしてその長であるローマ法王に極めて大きな「権威」を認めていることであると思います。そして、過去の出来事を学ぶと、その「権威」が聖書の権威すら越えてしまう行為に及んだということが分かります。ユダヤ教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、最高の権威は神のみであり、そのことばである聖書のみなのです。その権威を侵すことは、神様への不従順、信仰の逸脱に他ならないのです。
いかなるキリスト教の教派、教団であろうと、人間的な組織の中で作られた「権威」が聖書の権威を越えることは許されません。また、何かしらの「権威」にこだわる指導者がいたとしたら、それは聖書信仰の健全さについての「危険信号」だと理解する必要があると思います。
今日の箇所から、祭司長、律法学者、長老たちは、聖書のみことばよりも、自分たちの権威を絶対視していたことが分かります。彼らは、11章15-18節に記されているイエス様の「宮きよめ」について文句を言っているわけですが、彼ら自身、神殿内での商売が神様の御心に沿ったものでないことを心のどこかで知っていたのです。もし、「宮きよめ」の行為に明らかな律法違反があれば、その場でイエス様を取り押さえ、律法によって裁くことも可能だったことでしょう。しかし、それをしなかったということは、自分たちの落ち度についての認識があったという証拠なのです。
ですから、イエス様に「確かに神殿内での商売については問題があったかもしれないが、お前にあのような行為を行う権威があるのか?」と、イエス様の行為の正当性を問いただしてきたのです。もちろん、福音書をすべて読んでいる私たちは、イエス様が「神の御子」としての権威をお持ちだと知っているわけですが、十字架と復活の前のこの時点では、たとえイエス様が「私は神の御子としての権威を持っている!」と宣言したところで、だれもイエス様の権威を認めなかったことでしょう。
つまり、ここでの重要なポイントは、大切なのは「権威の有無」ではないということです。神様の前では、何らかの権威があろうがなかろうが、人は等しく罪人であり、もし誰かが神様の前に間違ったことを行っているのであれば、権威や立場と関係なく、それをはっきりと指摘することができるということです。宗教改革もルターの「それって聖書的?」という素朴な疑問から始まったのです。
ですから、現代に生きるクリスチャンも「それって聖書的?」という、素朴な疑問を持ち続けることが大切なのです。キリスト教会においては、どのような権威によって権威付けされている伝統、習慣、聖書解釈も、聖書的でなければ正当化されたり、絶対化されたりすることはないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


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