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2022年7月6日(水)
マタイの福音書 27章47-49節 47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。48また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。{ほかの者が槍を取って、イエスのわき腹を突き刺した。すると、水と血が出て来た。}
【ポイント】 ①神様の御業をしっかりと見る マタイ13章14-16を再度見てみましょう。 「14こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。15この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」
多くのユダヤ人は自分たちが勝手に想像した「救い主・メシア」を期待していました。しかし、神様が実際に与えられた救い主は、彼らが想像していたものとは全く違っていました。ですから、自分たちの目で救い主を見、自分たちの耳で救い主のことばを聞いていたのに、それを悟ることができなかったのです。
それでは、イエス様の時代のユダヤ人たちは「メシア」についての情報が不十分だったのでしょうか。絶対にそのようなことはありませんでした。マタイも度々引用しているように、旧約聖書には来るべきメシアはこのような方であるという預言(情報)がたくさん載せられているのです。しかし、彼らはそれらのみことばも見ようとせず、また聞こうともしなかったのです。ですから、目の前に救い主・メシアがいるのにも関わらず、依然として「エリヤ」が真の救い主として現れるのではないかと期待していたのです。
まだ復活、昇天、聖霊降臨の前なので、人々がイエスがメシアであることを知ることができなかったと考える人もいるでしょう。イエス様の十字架刑も、祭司たちの策略であって、人々がイエス様が本当は何者であるのかをじっくりと考える前に、事が進んでしまったと考える人もいることでしょう。
先の戦争について「日本は、あれよあれよという間に戦争に向っていった」という感想を述べている日本人がたくさんいます。イエス様の十字架の周辺と似たような出来事は、日本の近代の歴史の中でも起きているのです。一部の人のヒステリーが、集団ヒステリーとなり、あれよあれよという間に戦争に巻き込まれていくのです。旧約聖書の記述とイエス様の言動を検証すれば、イエス様がメシアであるという可能性が極めて高いという結論に達することができたはずなのに、群衆(一般市民)は一部の人々の策略や偽証に騙され、イエス様の十字架刑に賛成してしまいました。同じように、過去の歴史を検証すれば、高見の見物ができるごく一部の人が得をするだけで、一般市民には苦しみ、悲しみ、怒りしか与えないことは火を見るよりも明らかです。にも拘わらず、再び同じようなことが起きてしまうのです。
これが、人間という動物の弱さであり、愚かさなのです。その私たちが同じ過ちを繰り返すことをやめるための方法の一つは、過去の歴史から学ぶことです。クリスチャンである私たちが、信仰上での過ちを繰り返さないためにするべきことは、信仰の先輩であるユダヤ人たちの失敗(聖書)から学ぶことなのです。学ぶといっても、紋切型の聖書的(キリスト教的)倫理を学ぶのではなく、キリスト教の霊性を学ぶのでもなく、「神様と人間の生きた関係」について学ぶのです。誰が神様を愛し、神様に忠実であったのか、誰がそうでなかったのか、それぞれの人たちがどのような人生を送り、どのような実を結んだのかを学ぶのです。
「13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリ13:13)
ライフチャーチ 大谷信道