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2021年7月6日(火)
マタイの福音書 6:9-10 9だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。10御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
【ポイント】 ①「主の祈り」を自分の一番の願いとする 主の祈りの唱和は多くの教会で当然のこととなっています。先日、私は主の祈りの唱和に違和感を覚えることがあることを分かち合いました。もちろん、すべての教会における主の祈りが悪いものであると言っているのではありません。そして、主の祈りの唱和を聞かれる神様が喜ばれると思われる条件も明確に持っています。今日はそれをお分かちしたいと思います。
それは、今日のポイントにある通り、私たちが「主の祈り」を、自分の一番の心の願いとしてささげることです。「主の祈り」は100%神様の御心に沿うものなわけですから、神様がその祈り・告白を退けられることはないのです。先日、祈りの本質は神様との個人的な対話であると学びましたが、主の祈りを祈る一人ひとりが、真実な祈りとして「主の祈り」をささげるのであれば、それは声を合わせるという意味での唱和ではなく、心を一つに合わせた神様との対話になるのです。
それでは、一つひとつ見ていきましょう。まず「天にいます私たちの父よ」という部分です。「主の祈りに限らず、私たちが神様に語りかける時、その語りかけは真実なものでなければ、主の名をみだりに唱えることになってしまいます(参出エジプト20:7)。特にここでは、イエス様は「天の父よ」と呼びかけることを教えられています。ですから、私たちは神様を自分を愛し、非常に親密な関係を許してくださっている方として対話することが求められているということなのです。そのような意識で祈りを始めていますか?
次は、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」という部分です。私は、この二つはほぼ同じ祈りであると理解しています。御国のイメージ一つは、神の王国の王である主に喜びをもって賛美・礼拝をささげている姿です。そして、それは神様の目的、別の言い方をすれば、神様の計画の最終的な姿でもあるのです。私たちが主に忠実な者であるとしたら、主の計画の実現が自分の一番の願いであり、喜びとなるはずなのです。反対に、この祈りが、自分の一番大切な願いでないとしたら、私たちの信仰歩みが右か左にそれてしまっている可能性があるのです。あなたは、主の祈りを祈る時、この部分を、自分の一番の願い、人生の目的として主に告白しているでしょうか。また、普段何を考えながらこの部分を口にしているのでしょうか。よく考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷 信道