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2020年7月9日(木)
へブル人への手紙 3:16-19 16聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。17神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。18また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。19それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
【ポイント】 ①ここでの「罪」とは? エジプトを脱出したイスラエルの民に対して神様が「わたしの安息に入らせない」と誓われたのはどの場面だったでしょうか。「誓われた」ということばからすると、申命記1章34-35節にはこうあります。「34主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。『この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。36ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。』」
実際の出来事については、民数記13-14章を見るとよく分かります。モーセがカナン偵察に人を送ったときに、ヨシュアとカレブだけが神様与えてくださる約束の地(安息の地)が「すばらしく良い地だった」(民14:6-9)と言ったのです。一方他の人々は「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」とモーセとアロンにつぶやいたのです。
ですから、ここで私たちが知るべきは、手紙の著者が「罪」と呼んでいるものは、私たちが日々犯してしまう罪ではなく、神様への完全な不信仰、神様への信頼を捨て去るという、信仰の根幹にかかわる問題だということです。神様はモーセを立て、イスラエルの民をエジプトから救い出し、安息の地に導き入れる約束をされました。ここで、人々に求められている信仰は、モーセを通して語られる神様の約束を信じ続けることであり、モーセを通して示されている救いの方法(安息への道)を信じることなのです。
イスラエルの人々の罪は、神様の救いの方法を捨て、自分たちの力で安息を得ようとしたことです。実は、私たちがイエス・キリストの福音、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという「神様の恵み」に、何かを付け足したり、何かを引くことは、先の個所のイスラエルの民と全く同じ罪を犯すことになることを知らなくてはなりません。そして、現実に多くの牧師、神学者、自分なりの理解、自分なりの方法によってイエス様の福音を別物にしてしまっているのです。そして、多くの信徒が、聖書ではなく、間違った福音が正しいものだと信じ込んでしまっているのです。
もし、神様が与えてくださる唯一の救い、唯一の安息への道を信じなければ、その当然の結末は「滅び」です。「神様を信じている」「イエス様を信じている」と口先で告白していても、その信仰が的外れであれば、その告白によって救われることはないのです。ですから、私たちは恐れをもって、純粋なイエス・キリストの福音に聞き、信頼し続けることが大切なのです。
ライフチャーチ 大谷 信道