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2020年8月10日(月)
へブル人への手紙 8:1-5 1以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、2人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。3すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。4もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。5その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」
【ポイント】 ①私たちが見るべき「霊的な現実」について知る 1、2節を見てみましょう。ここに書かれている事柄は、私たちの肉体の目では見ることができない「霊的な現実」です。霊的な現実は、物質的(物理的)は現実とは違いますから、多面的(多次元?)で理解することが大切です。つまり、「キリストは私たちの内におられる」という霊的現実と「天におられる大能者の御座に着座」という霊的現実は、たとえ私たちの頭で理解できないとしても、霊的な領域においては何ら矛盾することなく両立されているということです。ちなみに、時折ふれますが、三位一体という霊的な現実も同じで、私たちが理解も想像もできないとしても、それが霊的な領域における現実なのです。
また、その具体的な仕組みが理解できないとしても、そこから断片的であったとしても導き出せる結論があります。第一に、地上の神殿(幕屋)は必要なくなったということです。この霊的現実はヨハネの福音書4章でイエス様ご自身が明言されていますね。「21イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』」つまり、私たちクリスチャンにとってエルサレムは歴史的、考古学的な研究対象としては非常に重要なものですが、霊的な現実という点では全くそうではないということです。それは、地上の建築物としての教会にも当てはめることができます。
しかし、過去、現在のクリスチャンの行動(宗教的な聖地巡礼など)を見れば、多くのクリスチャンが聖書にはっきりと教えられている霊的な現実を理解していないか、その聖書個所を無視していることが分かるのと思います。と言うことは、私たちクリスチャンが、目に見えない霊的な現実について、一生懸命意識を向けていなければ、簡単に真理から離れて行ってしまう弱さを持っているということでもあります。
あなたは、大丈夫ですか?
ライフチャーチ 大谷信道