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2017年8月11日(金)
【通読】
マタイの福音書 14:15-21
15夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」16しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」17しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」18すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」19そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。20人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。21食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
【ポイント】
①5千人の給食
5つのパンと二匹の魚で、男性だけでも5千人もいた群衆のお腹を満たすという出来事は私たちの常識からは絶対に考えられないものです。しかし、この常識は2000年前も変わることはありませんでした。どの時代、どの地域においても、イエス様の5千人の給食の業は常識外であり、言ってみれば「バカバカしい話し」なのです。
それは、イエス様の復活についても同じことが言えます。パウロがアテネで伝道したときの人々の反応は「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った。」(使徒17:32)というものでしたし、パウロがアグリッパ王の前で福音を語った時にも「パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている』と言った。」(使徒26:24)と言うような反応がありました。
ここで重要なポイントは、マタイだけでなく、マルコ、ルカ、ヨハネが自分の福音書に5千人(4千人)の給食を載せていることです。聞いた人の誰でもがその内容の真実さを疑うであろうこと、そして書いた自分も常識を疑われ馬鹿にされるであろうこと十分に予想した上で、福音書の著者全員が5千人の給食を書き記しているのです。
なぜ、自分たちの常識が疑われるような出来事をわざわざ著したのでしょうか。私は、その理由は、5千人の給食が事実であったからだと理解し、信じています。
ライフチャーチ
大谷信道