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2021年8月12日(木)
マタイの福音書 8:5-7 5イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、6言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」7イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
【ポイント】 ①常にパリサイ人・律法学者の視点からイエス様を見る その2 「百人隊長」とは、ローマ帝国軍の軍人であり、百人の隊員を束ねる立場にあった人です。人望や優れたリーダシップが要求される重要な職に就く人であったと思われます。ただ、パリサイ人・律法学者(宗教熱心なユダヤ人)にとっては、百人隊長は「異邦人」であり、自分たちを支配するローマ皇帝の手先であもあったわけです。つまり、パリサイ人たちにとって「百院隊長」は、差別、侮蔑の対象であり、個人的な交わりなどを持つことなど考えもしたことのない人々だったということです。「異邦人」と食事をしたり、抱擁したりする場面を思い浮かべるだけでも吐き気を催してしまう人すらいたのではないかと思います。現代に生きるクリスチャンは、イエス様が異邦人である「百人隊長」と会話を交わしたり、その願いを聞き入れている姿に違和感を覚える人はいないと思いますが、当時のユダヤ人、特にパリサイ人や律法学者にとっては、驚くべき(軽蔑すべき)行動だったのです。
私たちは、当時のユダヤ人が持っていた差別意識について、決して他人事と考えてはなりません。現代においても、先進国であるアメリカでも依然として、あからさまな人種差別が行われています。人種だけでなく、男女の格差、性的指向違い、宗教の違い、などによる偏見や差別が存在します。私たちの暮らす日本でも同じです。しかし、一番悲しいことは、イエス様を愛し、イエス様に従っているはずのクリスチャンの中にも、依然として差別や偏見が存在していることです。むしろ、聖書の教えに保守的であることを旗印としてる福音主義のクリスチャンにその傾向が強く見られることです。聖書を大切にしているはずのクリスチャンが、聖書に記されているパリサイ人たちの失敗から学ぶことをせず、むしろ、同じ間違いを犯してしまっていることがあるのです。
私たちが「聖書的でありたい」と思うのであれば、イエス様の歩みに真剣に従って行く決意が必要なのではないでしょうか。そして「聖書的でありたい」と思う人こそ、自分の中に「聖書的でない」部分がないか、自らを検証したり、謙虚に認めることが大切なのです。
ライフチャーチ 大谷 信道