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2021年8月13日(金)
マタイの福音書 8:8-10 8しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。9と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」10イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
【ポイント】 ①常にパリサイ人・律法学者の視点からイエス様を見る その3 最初に10節のイエス様のことばを見てみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」このことばは、誰に向けて語られたものでしょうか。デイリーディボーションを毎日読まれている方はすぐに分かりますね。そうです、「パリサイ人・律法学者」に向けて語られているのです。もっと、厳密に言えば、このイエス様のことばが一番心に刺さったのは「パリサイ人・律法学者」だったということです。彼らが一番聞きたくない、そして彼らが一番聞かなくてはならないメッセージだったからです。
パリサイ人や律法学者は自分たちの「信仰」に自信や誇りを持っていました。そして、彼らにとっての「信仰」とは、「律法」や「言い伝え(過去の教師たちの教え)」を忠実に守ることでした。ところが、イエス様(神様)から見た彼らの「信仰」は、全くの見当違いのものだったということです。イエス様は今日の個所で、その点について、意図的にパリサイ人や律法学者がドキッとしたり、腹を立てたりする方法で語られたのです。イエス様が、彼らが侮蔑する異邦人が自分たちの信仰よりも優れていると言われたことは、彼らにとって屈辱的な経験だったことでしょう。
それでは、現代に生きる私たちにとっては関係の無いメッセージでしょうか。決してそのようなことはありません。「自分は信仰的である」「自分は熱心なクリスチャンである」という自負を持っている人こそ、今日のイエス様のことばに耳を傾けるべきです。「自分の信仰は未熟である」という自覚がある人は、イエス様が教えている「信仰」は「宗教熱心になること」「キリスト教の伝統、習慣、行事などにどっぷり浸かること」でもないことを知りましょう。今日の個所から知ることができるイエス様の教える「信仰」とは、一言で言えば「神様に対する信頼」なのです。
「長時間祈らなければ・・・」「〇〇さんみたいに祈れなければ・・・」「毎週礼拝に参加しなければ・・・」と、特定の行為をしなければ神様からの祝福が受けられない、神様からの罰を受けると信じている人は、どんなに宗教熱心に見えても、その心の中は不安でいっぱいです。神様の愛を信頼していないからです。とはいえ、礼拝、祈り、みことばの学び、交わりなどをいい加減にしている人も、神様を心から愛しているとは言えないでしょう。
あなたの現在の信仰がどのようなものであれ、今日のイエス様のみことばを聞き、神様を信頼する決意を新たにしましょう。「神様、あなたが共にいてくださるから大丈夫です!」と心に決めるのです。
ライフチャーチ 大谷 信道