デイリーディボーション 8月19日(土)

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デイリーディボーション 8月19日(土)

2017年8月19日(土)

【通読】
マタイの福音書 15:12-20
12そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」13しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。14彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」15そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」16イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。17口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。18しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。19悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。20これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

【ポイント】
①自分の信仰をカルト宗教に陥らせないために
カルト宗教の本質は「自己満足」です。残念ながらクリスチャンの中にも神様、信仰が自分の欲求を満たす手段になってしまっている人がいます。熱狂的に礼拝したり、祈ったりする自分姿を周りの人に見せたり、自分自身がその姿に陶酔したり、周りのクリスチャンに対して優越感を持ったりしてしまうのです。一見、宗教熱心な素晴らしいクリスチャンに見えはするのですが、その心の中は周りの人に認められたい、褒められたいという思いでいっぱい、つまり、「自分のこと」でいっぱいなのです。その典型的な例がイエス様の時代のパリサイ人たちだったのです。

一方、もし私たちが神様に愛され、赦され、認められ、受け入れられているという約束を信じ、その愛に満たされるとき、私たちは自分の宗教熱心さを周りの人たちにアピールしたり、律法主義的に他者をさばいたりするという、「自己満足・自己顕示欲」から解放されます。神様との健全な関係が確立されていれば、「洗わない手で食べること」など神様の前では大きな問題ではないのです。問題なのは、神様の思いを知りながら、「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」など行なうことを自分に許してしまう自分の心、罪深さが問題なのです。イエス様は、問題の本質である「罪の性質」と向き合わず、あたかも自分たちは神様の御心を行っていると勘違いしているパリサイ人の「偽善」を強く非難されたのです。

「偽善」とは、自分が「善人(罪のない者)であると偽ること」です。この問題の解決方法は、「真の善人(真善?)」になることではありません。自分が善人(罪のない者)であると「偽ること」を止め、自分の罪深さを認めることなのです。そこで初めてイエス様の罪の贖い、救いを求めるようになるからです。この方法を間違えてしまうと、クリスチャンである私たちの信仰が、カルト宗教的なものになってしまうのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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