デイリーディボーション 8月19日(月)

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デイリーディボーション 8月19日(月)

2019年8月19日(月)
マルコの福音書 14:43-46 43そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。44イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」45それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。46すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
【ポイント】 ① ユダについて深く考える その2 先日学んだ通り、イエス様は自分を十字架につける「汚れ役」を背負わせるためではなく、ご自分の愛する弟子として招かれたのです。(ヨハネ13章)イエス様を裏切ってしまったユダも、後に大きな後悔(悔い改め)を覚えた事実から、彼がイエス様を愛していたことも明らかです。しかし、ユダはイエス様を愛し、従うことを彼の人生の最優先事項にすることができなかったのです。
ユダはイエス様を裏切りるという罪を犯しました。しかし、たの11人の弟子も同じようにイエス様を見捨てるという罪を犯しました。そして、私たちクリスチャンも彼らと何一つ変わらない「罪人」です。そもそも、私たちが律法の行いによって神様の義を獲得することができていれば、イエス様は罪の贖いをする必要は全くなかったのです。ですから、イエス様が十字架で死なれた直接の原因は私たち全員に等しくあるのです。
ユダを見るとき、イエス様を知らないといったペテロを見るとき、イエス様を十字架につけろを叫んだユダヤ人を見るときに、私たちは自分自身の罪深い姿を見るのです。自分の罪深さを知ること、認めること、悔い改めることが、私たちの信仰の歩みの原点です。これをいい加減にしてはなりません。ユダは自殺することによって悔い改めの機会を自ら奪ってしまいました。しかし、私たちは違います。ユダヤはまさに自分のそのものであるという確信に至るときに、純粋な悔い改めに導かれ、ペテロやパウロのように再びチャンスを与えてくださる神様の愛と憐れみを誰よりも深く味わうことができる者として歩むことになるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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