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2021年8月19日(木)
マタイの福音書 8:17-18 18さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。19そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」20すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
【ポイント】 ①イエス様を「信じる」生き方とは? クリスチャンの中には「律法学者」や「パリサイ人」に「悪者」のレッテルを貼ってしまっている人がいるかもしれませんが、そのような理解はイエス様を正しく理解することを阻害する原因となります。確かに、イエス様から見て、信仰が形骸化してしまっている「律法学者」や「パリサイ人」がたくさんいたことは事実だと思います。しかし、聖書の神様のことばと信じている「律法学者」や「パリサイ人」こそ、イエス様の福音を最も正確に理解する可能性がある、極めて重要な伝道対象者であったのです。事実、エリートパリサイ人であったサウロ(パウロ)は、イエス様の使徒として、とくに福音を正確に説明する者として大きく用いられましたね。
今日の個所には、その「律法学者」が登場します。なんとイエス様の弟子として伝道チームに加わりたいという申し出をしたのです。18-20節を見る限りでは、この律法学者はイエス様を試したり、陥れようとする悪意は全くなかったと思われます。つまり、彼としては真剣な申し出だったわけです。
ところが、イエス様は手放しで彼を迎え入れることをされませんでした。20節のイエス様のことばを簡単なことばに変えると「ものすごく大変な生活になるけど覚悟はある?」というような感じになると思います。恐らく、律法学者になれたということは、裕福な家庭に育ち、何不自由ない生活をし、最高の教育を受けてきた可能性があるわけです。エジプトから脱出したイスラエルの民も、食べ物、飲み物のことで不満を覚え、神様につぶやきました。同じように、イエス様の弟子として、イエス様の伝道旅行について行くためには、飢え、渇き、貧しさという試練が伴うことを確認されたのです(参マタイ12:1)。
イエス様は、決して彼がパリサイ人だという理由(差別的な理由)で、彼に意地悪を言ったわけでも、弟子として受け入れることを拒否したわけでもありません。恐らく、イエス様の目から見て、この律法学者に心配な点があったのでしょう。
さらに、重要なポイントは、イエス様のこの出来事をイエス様の周りにいるすべての人に聞かせたかったということです。この世的な利得を求めてイエス様についてきている人がいたとしたら、その人にとっても、イエス様のことばは1つの試み(テスト)となったわけです。同じように、このイエス様のみことばを読むすべての人も、試みを受けているのです。
しかし、このメッセージは5章の至福の教えからすでに明らかにされていましたね。イエス様を信じる時に与えられる祝福な何とも比較できないほど大きなものですが、同時にイエス様を信じるがゆえに、内面に様々な葛藤を覚えたり、外からの迫害に遭ったりする可能性があるのです。イエス様は、そのことについて、一切隠すことをされなかったのです。
ライフチャーチ 大谷 信道