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2022年8月2日(火)
マタイの福音書 28章18節 18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
【ポイント】 ①イエス様を信じるとは? 繰り返し学んでいるポイントですが、クリスチャンの中には「イエス様のご利益」を信じているだけの人が少なくありません。つまり、「イエス様を信じれば天国に行ける」というシステムを信じているのです。厳しい言い方をすれば、その場合のイエス様は、天国に行くための道具に過ぎないことになってしまいます。イエス様が明らかにされた「信仰」とはそのようなものではありません。
イエス様を信じるとは、イエス様を愛することであることは繰り返し学んでいますが、ここできちんと押さえておくべきポイントが一つあります。それは、私たちが愛しているのは、「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている方」だということです。もちろん、イエス様は私たちを「友」と呼んでくださる方ですし、天の父は私たちを「子」としてくださる方です。ですから、その関係の中心は愛であり、親しさであることは間違いありません。しかし、私たち罪深い人間は、親しい間柄の相手に対して、その親しさゆえに、悪い意味での「甘え」が入り込むことがあります。夫婦、親子の間に「甘え」が入り込むと、相手に対して威張ったり、傲慢になったり、礼節を欠いたりすることあるのではないでしょうか。それは、相手は自分を赦してくれると信じているがゆえに起こるわけです。ですから「甘え」は決して悪ではありません。天の父も、私たちの「甘え」を許してくださる寛大な方です。しかし、イエス・キリストが絶対的な権威をお持ちの方であるという事実を忘れてはならないのです。イエス様をご自分の権威を利用し、恐怖をもって私たちを支配する方ではありませんが、私たちがいい加減な態度で接する対象ではないのです。
これは、特別なことではありません。私は、子育てにおいても、親は自分の子どもに対し尊敬と敬意をもって接するべきだと思っています。子どもは、自分の所有物でも、支配下にある者(奴隷)でもありません。神様から、お預かりしている貴い存在なのです。そのような存在として、接していくことが本当の意味で相手を愛することになるのだと思います。
日本のことわざで言えば「親しき中にも礼儀あり」ということになるでしょう。私たちクリスチャンは、「最大限の親しさ」と「最大限の畏れ」を両立させながら、イエス様を愛していくのです。どちらが欠けても、イエス様の教えられた愛ではなくなってしまうのです。
それでは、私たちクリスチャンはイエス様の絶対的な権威に従っているでしょうか。それも、罰を受けたくないという恐れからではなく、イエス様からの愛の応答として、喜びをもって従っているでしょうか。
このような観点から、自分のイエス様との関係を見つめ直してみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道