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2017年8月21日(月)
【通読】
マタイの福音書 15:21-28
21それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。22すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。24しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。25しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。26すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。27しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」28そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
【ポイント】
①イエス・キリストは「主」
今日のエピソードを読んで「イエス様はちょっと意地悪?」と感じる人がいることでしょう。もちろん、イエス様は「意地悪」ではありません。しかし、イエス様は「便利な人」でもありません。イエス様が人々の願いを全て聞き入れ、そのとおりにしてあげれば、「イエス様って親切!」となるのかもしれません。しかし、人々の願いどおりに全てを行う人がいたとしたら、それは「神」でも「メシア」でもなく、ただの「便利な人」になってしまうことでしょう。「人々の願いを全て聞き入れられるのが良い神」などと勘違いしてはならないのです。
ですから、イエス様はカナン人の女性がイエス様を何者と理解しているのかを確認されたのでしょう。カナン人の女性はイエス様は「主」であり、自分たちは家で飼われている「犬」のような存在であると語ったのです。つまり、犬が食卓から落ちたパンくずをもらえるように、異邦人である自分たちも、ユダヤ人の主の恵み、あわれみに預かっても良いのではないかと主張したのです。つまり、自分は飼い犬に過ぎないような存在だけれども、きちんとイエス様を「主人」として認識していると告白したのです。
イエス様は最初からこの女性の純粋な信仰を見抜かれていたと思われます。しかし、弟子たちにこの女性の告白を聞かせるために、あえて叫びながら助けを求める女性を放置されていたのではないかと思われます。そして、この出来事が起きたからこそ弟子たちは、イエス様が異邦人も神様の恵みに預かることができると考えられていたことを理解できたわけです。
ライフチャーチ
大谷信道