デイリーディボーション 8月22日(土)

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デイリーディボーション 8月22日(土)

2020年8月22日(土)
へブル人への手紙 10:17-18 17「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」18これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
【ポイント】 ①神様との愛の関係をベースにして考える 17節で思い描くべきなのは、決して裁判官と被告人の姿ではありません。一番分かりやすい例の一つは「放蕩息子と父親」でしょう。父親は息子が犯した罪をすべて知り、息子が依然として罪人であることを知りながら、自分の罪に気づき、自分に赦しを求める息子を温かく受け入れたのです。神様が本当に求めている人間との関係は、放蕩息子と父親に見ることができる「愛の関係」なのです。
17節の神様のことば、そしてイエス様十字架による贖いは、罪人である私たちに「大丈夫だよ。罪の問題は私が処理をしたから、お前はここに帰ってくればいいのだよ!」というメッセージなのです。
問題は、多くの人が、依然として、かつての放蕩息子のように自分の欲求を満たすことに喜びや幸せを覚え「まだこの世界を楽しみたい」と思っていることです。しかし、数は少ないのですが、自分の欲求を満たすことを目的とした人生に空しさを覚えた人の中には、天の父からの「わたしは、もはや決してあなたの罪と不法とを思い出すことはしない。」という呼びかけを聞き、本当の幸せ、本当の喜びは、天の父との愛の関係の中にしかないことに気づくのです。
この気づきを得るために、律法は必要だったのです。律法がなければ、私たちは、自分の欲求を満たす生き方が罪深いものであることにすら気づかなかったのです。
最後に、ガラテヤ人への手紙3章に記されているパウロの律法についての説明を見てみましょう。
ガラテヤ人への手紙3章23‐26節 23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。25しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
ライフチャーチ 大谷信道


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