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2017年8月22日(火)
【通読】
マタイの福音書 15:29-31
29それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。30すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。31それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。
【ポイント】
①いやしの意味を確認する
イエス様がいやしを行なう目的を考えてみましょう。マタイの9章では中風の男性を癒やされる時にイエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」と言われました。当時の人々は病の原因が罪であると考えていましたから、病のいやしは罪の赦しをも意味していました。そして、「罪を赦す権威」は神様だけが有している権威ですから、イエス様はご自分が神と等しい者であることを証明するためにいやしを行われたことが分かります。
さらに、イエス様のいやしの究極的な目的は、天の父に栄光を帰することです。今日の箇所の31節の「そして彼らはイスラエルの神をあがめた。」という記述からそれを知ることができます。イエス様がいやしを行なうことによって、ご自分だけでなく、天の父が人々からの賛美、栄光を受けることになっているということです。この姿こそ、いやしのために祈る者、いやしを受けた者のあるべき姿なのです。
残念ながらいやしのミニストリーを行う人が新興宗教の教祖のような立ち振舞いをするようになってしまったり、いやされた人がいやしを行った人を教祖のように信奉するようになってしまうという現象が現代のキリスト境界では多々見られます。ですから、いやしを行なう者、いやされた者の両方が、聖書に記されているイエス様の模範からしっかりと学ぶことが重要なのです。
もちろん、イエス様のいやしはイエス様の愛、あわれみの深さが表されています。イエス様は神と同じ権威を持ちながら、パリサイ人たちのように病人(罪人)を汚れた者として扱うことなく、むしろ限りない愛とあわれみを示してくださったのです。
ライフチャーチ
大谷信道