誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2021年8月23日(月)
マタイの福音書 8:21-22 21また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」22ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
【ポイント】 ①弟子の覚悟 今日の個所も、理解によってはイエス様の人となりのイメージが大きく変わるところだと思います。
イエス様は、父を葬ることを願い出た人の願いを拒絶され、弟子として従って行くことを許可されなかったのでしょうか。それとも、この弟子に彼の目に見えていない霊的な現実(神の国の価値観)を教えられたのでしょうか。
以前、私は前者であると思っていましたが、今は必ずしもそうではないのではないかと考えるようになりました。と言うのも、イエス様が本当にしたかったことは、イエス様に従って行くことの大変さを教えるだけでなく、神の国において何が最も重要なことであるのかをしっかりと教えることだったのではないかと思うからです。弟子をふるいにかけ、失格者を烙印を押すことは簡単なことです。むしろ、弟子たちに福音を伝え、神の国の価値観を教えることのほうが、ずっと手間も時間もかかる大変な作業だったはずです。そして、福音書全体からイエス様の歩みを見ると、イエス様の一挙手一投足は弟子たちへの模範であったり、レクチャーであったことが分かるのです。
とはいえ、この後にイエス様が、この弟子が父を葬りに行くことを禁じられたのか、霊的な現実を教えた上でそれを許されたのかは分かりません。しかし、それがどちらであったにせよ、イエス様に従うこと以上に優先順位の高いことはないということです。当時のユダヤ人だけでなく、現代の日本人にとっても、肉親の葬儀が極めて重要であると考えることが「当然」となっています。イエス様は、その「当然」に一石を投じられたのです。イエス様の福音を信じるのであれば、福音を信じることなく死んだ者をどのように丁重に葬ったとしても、その人が天の御国に迎え入れられることはないからです。
この霊的な状況を津波にたとえてみましょう。既に津波に飲み込まれ、100%助かる見込みがない家族がいたとしたら、どれほど後ろ髪を引かれても、あなたは戻ってはならないのです。高台を目指して津波から逃げ続けなければならないのです。そして、命を落とした家族も、あなたが生き延びることを望んでいるのです。イエス様の目から見れば、今日の個所はそのように見えているのではないでしょうか。
イエス様は、単に弟子としての資格について教えているのではなく、一人でも多くの人が福音を信じ救われることを願っているのです。
ライフチャーチ 大谷 信道