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2017年8月26日(土)
【通読】
マタイの福音書 16:13-20
13さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」14彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」20そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
【ポイント】
①純粋な信仰(愛)は排他的
イエス様はご自分が「生ける神の御子キリスト」であることを人々に知らせるために旅をしながら人々を教え、様々な奇跡を行われました。そして、イエス様が「生ける神の御子キリスト」であるとすれば、人々の罪をさばいたり、赦したりする権威を持っていることを意味しています。
そして、イエス様を「生ける神の御子キリスト」であると認識した人は、自分の魂を活かしたり、滅ぼすことができるイエス様に人生を委ね、従っていくのか、または、イエス様の支配を受け入れないのかを選択することが求められます。
この選択には「ニュートラルエリア」も「グレーゾーン」もありません。にもかかわらず「イエスは素晴らしい教えを広められた偉人であるけれども、人生を委ねるほどのめり込む必要はないでしょ。」というようなニュートラルエリア、グレーゾーンを選ぶ人が大変多くいます。「一つの宗教にのめり込むことは危険だ」というのが常識的な見方なのです。
しかし、イエス様が求められている純粋な信仰(愛)とはどのようなものなのでしょうか。いつものように結婚を例にしてみましょう。結婚とは「相手にコミット(のめり込む)」することであり、他のすべての人を結婚相手の選択肢から「排除する」ことです。結婚を決意した人に向かって「一人の人にのめり込むのは良くないよ!」とか「一人の人しか愛さないなんて排他的じゃないか!」と言う人はいません。
ペテロの「あなたは、生ける神の御子キリストです。」という告白は、イエス様が何者であるのかを客観的に言い表したのではなく、イエス様を信じ、従っていくという、信仰(愛)の告白でもあるのです。
ライフチャーチ
大谷信道