デイリーディボーション 8月27日(月)

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デイリーディボーション 8月27日(月)

2018年8月27日(月)

コリント人への手紙 第一 12:20-27
20しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。21そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。22それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、24かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

【ポイント】
①教会を大切にする
土曜日の箇所と合わせて確認してみます。12章でパウロはキリストを信じる者の群れを「からだ」に例えて説明を続けています。聖書をよく勉強している人は「12章は『賜物』についての説明なのでは?」と疑問を持つかもしれません。しかし、明日の28節でも「教会」という単語が用いられている通り、パウロは「賜物」の話ではなく「教会」の話をしていることを知らなくてはなりません。12章全体を要約すれば、パウロは「コリントのクリスチャンたちよ、教会を大切にし、主の愛によって一致し、与えられた使命を全うしなさい。」と教えているだけなのです。

家庭の祝福がない限り、本当の意味での個人の幸せがないのと同じように、教会の祝福がなければ、一人のクリスチャンとしての幸せはないと聖書は教えているのです。この世では、多くの人が自分の欲求を満たす手段として神を利用することが正しいかのように教えている宗教はたくさんあります。残念ながらキリスト教会の中にもそのような教え方をしているところもあるようです。しかし、今日の箇所を一度でも読めば、キリスト教の信仰は、そのような個人主義的、ご利益主義的なものではないことが分かるのです。

私たちクリスチャンも、この世の個人主義的な宗教観が刷り込まれている場合が多いことを知る必要があります。しかし、繰り返しになりますが、健全な家庭が形成されない中で個人の幸せがないように、健全な教会全体の形成がないところに、個人の祝福がないことに気が付かなければならないのです。昨日の礼拝でも取り上げた1ヨハネ4章12節を見てみましょう。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」あなたが神様を見るかのように、神様の臨在に触れ、神様との交わりを体験したいと思うときに、私たちが成すべきことは、一人祈祷院などにこもって断食や祈りを続けることではなく、「互いに愛し合う」ことなのです。ヨハネも語っているこの真理を見過ごしてはならないのです。

「自分は神を見た!」「自分は神に触れられた!」などという経験を語るクリスチャンがいたとしても、家庭や教会で愛の実が結んでいなければ、そのような信仰も、体験も一人よがりの虚しいものであることを知らなくてはならないのです。

ライフチャーチ

大谷 信道


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