誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2020年8月27日(木)
へブル人への手紙 10:24-25 24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
【ポイント】 ①なぜ「教会」が大切なのか? 多くの人は「宗教施設」は、自分の礼拝・祈願が正式に受け入れられるために必要不可欠な要素だと思っています。もし、そうでなければ、初詣やお参りに行かずに、家で何らかの宗教的な儀式を行えばよいわけです。「教職者(僧侶、宮司、司祭、牧師)」など同じで、自分の正式な礼拝・祈願のために必要な要素と信じている人がほとんどでしょう。だから、人々は神社仏閣、教会、聖堂に集まるのです。つまり、「集まる」目的は「自分の祝福・ご利益」を確実にすることにあるのです。
人々が「宗教施設」や「宗教的職位」が自分がご利益を得るために必要なものだと考えていることは、教職者や宗教団体にとっては大変都合の良い話なのです。そこに宗教的な既得権益を得ることができるからです。つまり、宗教施設の使用、教職者の立ち合いのための「費用・対価」が発生しても、ご利益の需要があるので、人々は出費をいとわないのです。
しかし、このような参拝者と教職者との関係は、宗教的な腐敗の温床になる可能性があるのです。そして、キリスト教会も例外ではありません。
ですから、私たちクリスチャンはなぜ教会の集まるのか、なぜ牧師・司祭が建てられているのかをしっかりと聖書から学ぶ必要があるのです。そして、この世の中の一般的な「宗教」の感覚をキリスト教会に持ち込まないように努めることが大切なのです。つまり、私たちクリスチャンは、自分たちの礼拝が正式なものと認められるために、教会の建物に集まるのでも、牧師を立てるのでもないということです。これまで学んできた「大祭司イエス・キリスト」がおられるということは、そういうことなのです。「大祭司イエス・キリスト」がおられるので、私たちは、もはや目に見える「神殿」も「祭司職」も必要なくなったのです。
それでも、私たちが教会に集まり続ける理由が、今日の個所に記されているのです。大祭司イエス・キリストがいるので、私たちが、一人で家で礼拝をささげたとしても、神様はその礼拝を正式なものとして受け取り、喜んでくださいます。しかし、神様は、私たちが一人で礼拝をささげることではなく、集まり続けることを求められているのです。
ライフチャーチ 大谷信道