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2020年8月29日(土)
へブル人への手紙 10:30-31 30私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。31生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
【ポイント】 ①信仰の歩みの「ミクロ」と「マクロ」 信仰の歩みには「ミクロ」と「マクロ」があり、それぞれを分けて考えることが大切だと思います。「ミクロ」とは、個人の内面について、例えば霊性、人間性、罪深さ、良い行い、悪い行いなどに目を向け、「個人の内面の成長(罪を犯さなくなる・主を信頼し平安を保っている等)」が「信仰の成長」であるとする視点です。一方「マクロ」とは、神様の計画全体に目を向け、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、「神の国が拡大していること」「自分の教会が主にある一致を保っていること」が「信仰の成長」であるとする視点です。
それでは、ヘブル書の著者の視点はどうでしょうか。ここでは個人の倫理的な問題を「罪」と呼んでいるのでしょうか、それとも神様の計画、キリストの福音の前進についての問題を「罪」と呼んでいるのでしょうか。文脈から考えると、後者に重きが置かれていることが分かります。つまり、それがキリストの福音と違うことを知りながら、間違った福音を教え続け、23~25節に記されている「希望を告白すること」「勧め合い、励まし合うこと」「集まること」と否定するような人々を問題としているのです。つまり、ヘブル書の著者はマクロ的な観点から話しているということです。
一方、これらの個所を「ミクロ」の観点でとらえてしまうと26節の「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」という箇所は、とてつもなく恐ろしいメッセージとなります。なぜなら、私たちクリスチャンは、イエス様を信じる決心をした後も、罪を犯し続けるからです。他人から見れば完璧なように見える人でも、その心の中では、疑い、怒り、妬み、情欲、自己中心などの罪が常に存在しているはずです。そのような罪から完全に開放されている人間は、肉体をもって地上に遣わされたイエス様以外にはいないのです。だとすると、クリスチャン誰一人として、救いを達成することができなくなってしまうことになります。もし、自分の力で罪を克服できるのであれば、イエス様の贖いが不必要であったということにもなります。
もちろん、罪を犯さない者として成長していくことは神様の御心であり、ミクロ的な視点は大変重要なものです。しかし、私の個人的な経験からすると、マクロ的な視点が教えられていないクリスチャンがあまりにも多いのです。別の言い方をすると、「自分の信仰」のことで頭がいっぱいになっている、もっと言えばご利益宗教的な信仰に陥ってしまっているクリスチャンがあまりにも多いのです。
ですから、私たちは「ミクロ」と「マクロ」の両方の視点を意識することが大切なのです。これを念頭に置きながら聖書を読むと、目からウロコが取れたように、聖書がよく理解できるようになると思います。
ライフチャーチ 大谷信道