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2020年8月3日(月)
へブル人への手紙7:1-3 1このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。2またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。3父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
【ポイント】 ①大祭司イエス・キリストについての説明は難しいけれど・・・ 以前にもお話ししましたが、私たち異邦人にとっては「イエス・キリストは永遠の大祭司だ!」と聞いても、特に違和感も異論もないことでしょう。しかし、ユダヤ教徒は、何の根拠もないデタラメと受け取るでしょうし、この手紙の受け取り手であるユダヤ人クリスチャン(かつてユダヤ教徒であった人々)も、旧約聖書の記述から逸脱している教えだと感じる人が少なくないと思います。
しかし、実は、「それは聖書と矛盾していないか?」というユダヤ教徒や当時のユダヤ人クリスチャンの受け取り方(考え方)こそ、神のことばである聖書に対する誠実な向き合い方であることを知る必要があります。「イエス・キリストが永遠の大祭司である」という教えに対する疑問が向けられたのでば、旧約聖書から明確な答えを提示する必要がありますし、もしそれができないのであれば、「イエス・キリストが永遠の大祭司である」という教えは、間違いであるということになります。
実際のところ、新約聖書では、キリストを大祭司と呼んでいる箇所はヘブル書以外にはありません。しかし、イエス様の地上での行いを分析していくと、大祭司が担っていた働きを見事に全うしていることは明らかです。ヘブル書の著者は5章1-2節で大祭司の働きについて簡単に説明していましたね。「1大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。2彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」
まず、大祭司の職務で最も重要な働きは、人々の代わりに罪の贖いのための供え物を神様にささげることでしたが、イエス様はご自身をすべて人の罪の贖いとしてご自身を捧げられました。イエス様は神の小羊であるわけですが、律法によれはそれは大祭司によって清められ、捧げられる必要がありますが、それを行ったのはイエス様ご自身であったわけですから、イエス様は大祭司としての働きを行われたことは明らかです。
次に「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」というところを見ると、大祭司はただ機械的に動物を捧げていたのではなく、罪深い人々とのために「とりなし」を行っていたことが分かります。例えば、ローマ人への手紙8章34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」という箇所をみても、福音書を読んでも、イエス様が罪人と天の父の間に「とりなし手」として立ってくださっていることは明らかですね。
さらに、5章6節で引用されていた、詩編110編4節「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」という箇所を見ても、メシアは「レビ族とは別の永遠の祭司」であることは、ヘブル書の著者の説明は、詭弁でも、強引な解釈でもなく、シンプルに旧約聖書を教えに基づくものであることは明らかですね。
大祭司を大切にしていたユダヤ人が、イエス・キリストが永遠の大祭司であることを受け入れたとしたら、どれほど大きな喜びに包まれるのかを想像してみましょう。そのことによって、異邦人クリスチャンである私たちにも、永遠の大祭司が与えられている祝福を肌感覚で味うことができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道