誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2023年8月3日(木)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 15章16-20節 16それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。17それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。18私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、19また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。
①キリストの福音を正確に伝えるために立てられた使徒パウロ ローマの教会に手紙を書いた理由は、ローマの教会の中でイエス様の福音を正しく理解せず、間違った教えや、その適用がなされていたからだと思われます。つまり、真の問題はイエス様の福音が正しく伝えられていなかったか、時間の経過とともにイエス様の福音に何かを付け足したり、何かを引いてしまうというようなことが起きていたと推測できます。
イエス様の一番近くにいたペテロでさえも、当初イエス様の福音、恵み、異邦人の救いなどについて十分に理解できていなかったこと、理解していたかもしれないけれども、福音を十分に理解していなかった他のユダヤ人クリスチャンからのプレッシャーに負けて、間違った行動を取ってしまったことは、ガラテヤ人への手紙2章をみると良く分かります。よく引用している箇所ですが、非常に重要な箇所なので読んでみましょう。
「11ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。12なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。13そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。14しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。15私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」
神様の計画に「もし」はないのですが、もし神様がパウロを使徒として立てられなかったら、もしイエス様の福音を100%理解し、どのように「恵み」を日々の生活に適用するべきなのかを正確に教えることができる使徒がいなかったら、イエス様の弟子たちは「ユダヤ教の一派」として片づけられ、アジア、そして全世界に福音が伝えられることはなかったことでしょう。パウロは異邦人伝道だけでなく、イエス様の使徒たちがイエス様の福音に堅く立つことができるように助け、励ましたのです。
②人の土台の上に建てない 20節を見てみましょう。パウロは「20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」と語っていますが、これは、現代にも適用することができる大切なメッセージです。多くのクリスチャンが、長い歴史と伝統をもつ正統的なキリスト教を信じ、その歴史と伝統を継承することが、キリスト教に対するただし向き合い方だと思っているようです。しかし、そのような姿勢は、それこそキリスト教の歴史を振り返れば、非常に危険なものであることに気が付くはずです。
私たちの信仰はキリスト教の歴史と伝統という土台の上にではなく、イエス様の福音という土台の上に建てるべきものです。聖書を自由に手にすることができ、自分の言葉で直接聖書を読むことができる私たちは、過去の教師の解釈に頼ることなく、2000年の時を越えて、直接イエス様のみことばを聞くことができるからです。盲目的に自分の牧師や先輩クリスチャンの教えを鵜呑みにする必要はありません。自分で聖書を読み、疑問があれば牧師にどんどん質問すればよいのです。それが、牧師の勉強にもなるのです。
私たちは、自分の属する教会や教団の歴史や伝統を継承する責任を負う必要は全くないのです。私たちが神様から継承するように求められているのは、イエス様の福音であり、みことばなのです。