誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2022年8月3日(水)
マタイの福音書 28章19節 19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
【ポイント】 ①イエス様の弟子になるとは? 「弟子訓練」ということばが定着して久しいですが、私たちクリスチャンは「イエス様の弟子であること」について正しく理解しているでしょうか。「弟子訓練」という名目で行われる訓練の中で、訓練そのものが目的になってしまったり、終了したコースのレベルによって信徒の間に序列が作り上げられてしまったり、場合によっては、イエス様の弟子ではなく、牧師や教会のリーダーの師弟関係が構築されてしまったりというケースはないでしょうか。イエス様の「弟子づくりの命令」を教会の規模を大きくしたいという牧師たちの密かな欲望や、教会の中での序列(地位)を上げたいという信徒たちの密かな欲望を満たすための道具にしてはならないのです。
「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というイエス様の命令の真意を正しく理解する簡単な方法は、イエス様と弟子たちの関係を見ることです。ヨハネの福福音書15章14-15節を見てみましょう。「14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」イエス様と弟子たちの関係は、主従関係ではなく、愛をベースにした友人関係に近いものであることが分かります。弟子がイエス様の命令を守るのは、罰を恐れてではなく、あくまでもイエス様に対する愛、信頼の応答なのです。
さらに、ヨハネ13章34-35節では、「34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」とあるように、私たちがイエス様の弟子であるかどうかの客観的な指標は、私たちの「相互愛」なのです。相互愛が最終ゴールになっていない弟子訓練は、教会の奉仕者訓練に過ぎないかもしれませんし、弟子としての行ないを教えるコースであれば、結果としてパリサイ人のようなクリスチャンを作り出す結果となってしまうかもしれません。
イエス様の弟子となる招きを受けている私たちは、イエス様の愛を知り、イエス様の愛を受け取り、その応答として喜びのうちにイエス様に仕えていくという招きを受けているのです。イエス様の弟子として相応しい生き方、行動をいくら学んでも、それが愛の応答でなければ、似て非なるものになってしまうのです。8
ライフチャーチ 大谷信道