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2021年8月30日(月)
マタイの福音書 9:2-4 2すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。3すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。4イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
【ポイント】 ①宗教熱心からくる大きな勘違いに注意 律法学者は「あなたの罪は赦された」というイエス様のことばに憤りを覚え「この人は神をけがしている」と言いました。あなたはその理由が分かりますか?そうです、イエス様の「あなたの罪はゆるされた」ということばは、状況からすれば「私があなたの罪を赦しました」と言っているのと全く同じです。実際、イエス様はそのような意味で語られたわけですが、ユダヤ人にとって、それはイエス様が「私は神である」と宣言しているようにしか聞こえなかったはずです。 仕方のないことだと思いますが、当時の律法学者の持っていた信仰上の固定概念からすると、そのように思うのが当然であったと思います。
もちろん、神は唯一であるという真理は、旧約時代も新約時代も変わることのない真理です。この点については、ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も一致していることです。しかし、目の前に、「あなたの罪は赦された」ということばをもって、病をいやすことのできる人物に遭遇したら、それが何者であるのかということを固定概念、先入観なし(普通の論理的思考で)考える必要があるのではないでしょうか。つまり、罪を赦す権威が唯一の神様だけが持っている権威だとしたら、証拠をもって罪をゆることができた人がいれば、それは神と同じものであると考えなくてはならないということです。
律法学者の宗教熱心が彼らを盲目にさせていたわけですが、現代のクリスチャンも同じような間違いを犯している可能性があります。もちろん、「イエス様が何者であるのか」について勘違いをしてしまえば、それは別の何かを信じることになってしまいますから、そのような勘違いは論外ですが。しかし、聖書にはっきりと教えられていないことが、普遍の伝統になってしまったり、絶対的な伝統になっていることはないでしょうか。それが正統なキリスト教であると教えられてしまえば、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者と同じようになってしまうのではないでしょうか。
例を挙げればきりがないですが、例えば「LGBT」についてはどうでしょうか。聖書を間違いのない神のことばであると信じる保守的なクリスチャンの中には、「LGBTは罪である」と一刀両断にし、差別に近いような態度を取る人たちがいます。ライフチャーチでは繰り返し学んでいますが、聖書に照らしてみると、「LGBT」の人たちは間違いなく罪人です。しかし、「自分はLGBTではない」と思っている人も、全く同じように罪人です。どうして、罪人が罪人をさばくことができるのでしょうか。そこに、イエス様のみことばに対する不従順はないのでしょうか。
それが聖書の教えではないのに「聖書を信じる保守的なクリスチャンはこのように考えるべきだ」と教える人は、過去のラビたちの聖書解釈に旧約聖書と同等の権威を認めていた律法学者やパリサイ人の盲目とそっくりですね。
歴史を学ばない者が同じ間違いを繰り返すと言われています。同じように、聖書(その歴史)を学ばない者も同じ間違いを繰り返すのです。
ライフチャーチ 大谷 信道