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2020年8月31日(月)
へブル人への手紙 11:1 1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
【ポイント】 ①イエス様によって明らかにされた神様の計画の実現を信じる 今日の個所は様々な解釈がなされているようです。しかし、問題はきちんとした神学的(釈義的)な意味での解釈の相違ではありません。多くの牧師やクリスチャンによってなされている、原語や文脈を無視した、ある意味表面的な解釈です。
具体的には、この個所を「自分の実現」「成功」に適用してしまうことです。つまり、「信じていれば必ず夢は実現する!」「具体的な成功のビジョンを持てば、必ずその通りになる!」と言うような解釈です。しかし、それでは「信仰」は「自分の願いの実現のための道具」となってしまうのです。もちろん、「自分の願い」のすべてが自己中心で不純なものではありません。例えば、自分や愛する兄弟姉妹の病気・怪我のいやしや手術の成功などを信じることは、自己中心やエゴから出ているものではありません。しかし、大切なことは、ヘブル書の著者が今述べたような状況を想定しながら、今日の個所のことばを語っているのか否かと言うことです。文脈から見ると、そうではないことは明らかですかあら、今日の個所を病気の癒しなどに適用することも、不適当であると思われます。
それでは、1節の「望んでいることがら」「目に見えないもの」が自分の夢の実現や成功でないとしたら、一体何のことを言っているのでしょうか。一言で言えば「約束のもの」です。今日の個所の直前の10章36-39節をもう一度見てみましょう。
ヘブル人への手紙 10:16-19 36あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。37「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。38わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」39私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
私たちは、ある意味「救いの約束」「罪の贖い」「永遠のいのち」などの「約束」を受けているものです。しかし、目に見える現実を考えてみましょう。私たちの肉体は依然として誘惑に弱いものです。その結果、日々罪を犯し続けています。そして、この肉体は病気やケガの対象であり、いずれ死を迎え、朽ちるものです。つまり、救い、贖い、永遠のいのちは、まだ実現していないのです。ですから、私たちは神様の約束の完全な実現を「希望」として持ち続け、約束を疑うことなく、忍耐強くその実現を堕落した地上で待ち続けているのです。ですから、ヘブル書の著者は、イエス・キリストを信じる私たちが、最後の最後まで約束の実現を信じ続けることを「信仰」と呼んでいるのです。何度も、引用している箇所ですが、再度ローマ人への手紙8章を見てみましょう。
ローマ人への手紙 8:23-25 23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。24私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。25もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
ライフチャーチ 大谷信道