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2022年8月4日(木)
マタイの福音書 28章19節 19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
【ポイント】 ①「バプテスマを授け」とは? バプテスマは決して「儀式」ではありません。つまり、バプテスマを授けるという行為が超自然的な力を及ぼすというようなものではありません。残念ながら、クリスチャンの中にも誤解をしている人があまりにも多いのです。例えば、バプテスマに、神道で見かけるような「お祓い」や、日本のお寺で見かける「お清め」などと同じような感覚でバプテスマを理解している人が多いのです。その証拠に「私は〇〇才のときにバプテスマを受けました。」という表現を自然と使っている人が多いですね。とはいえ、カトリック教徒の洗礼の理解もこれに近いので、日本人に限らず、多くの人がバプテスマ(洗礼)という儀式によって正式にクリスチャンとなったと理解しているのかもしれません。
もし、バプテスマが儀式ではなく、それ自体に何の効力もないものだとしたら、バプテスマにはどのような意味があるのでしょうか。それは、主と共に死に、主と共に復活し、主と主にある兄弟姉妹と新しい人生を歩み出す宣言です(ローマ6章)。イエス様の時代に、ユダヤ人たちは、異教からユダヤ教に改宗した人にバプテスマを授け、その人を主にある隣人として、ユダヤ人コミュニティーに迎えていたと言われています。19節の「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」という箇所を見ても、イエス様を信じ、バプテスマを授けられた人が、弟子たちとの交わりに加えられることが明らかです。
使徒の働き8章には、ピリポがエルサレム巡礼からの帰途にあったエチオピアの宦官にバプテスマを授ける場面が記されていますが、旅の途中であったために、そこにはクリスチャンのコミュニティーも教会もありませんでした。しかし、この宦官がイエス様をメシアと信じたことは明らかです。エチオピアの高官ですから、従者を何人も引き連れていたことでしょう。そのような人々の目を気にすることもなく、バプテスマを受けることを望んだ宦官のイエス様に対する信仰は純粋なものだったことも明らかです。宣教師が宣教地で最初にバプテスマを授ける場合も、そこにはクリスチャンコミュニティーはないわけですから、一見すると一対一の個人的な儀式のように見えるかもしれません。このようなケースは多々あったと思いますが、バプテスマは本来、バプテスマを授けたコミュニティーが授けられた個人を兄弟として受け入れる約束のしるしでもあったのです。
ここで、イエス様は「バプテスマを受けなさい」ではなく、「バプテスマを授けなさい」と命令されました。それは、先にイエス様を信じた者たちに、新しくイエス様を信じたものを、主の御名によって受け入れ、主にある兄弟姉妹として愛しなさいという命令であることを忘れてはならないのです。
バプテスマについて、「浸礼か洗礼か?」とか「救いに必要な儀式か否か?」などの説明や議論を聞くことが多いと思います。しかし、すっかり抜け落ちているポイントがこの部分なのです。あなたの教会、そしてあなた自身は新しくイエス様を信じバプテスマを受ける人を兄弟姉妹として受け入れ、愛する約束をイエス様としているでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道