デイリーディボーション 8月5日(月)

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デイリーディボーション 8月5日(月)

2019年8月5日(月)
マルコの福音書 14:3-9 3イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。6すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。9まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
【ポイント】 ① 主イエス・キリストを愛する。 ヨハネの福音書ではこの女性はラザロとマルタの姉妹のマリアであったと記されています(ヨハネ12:3)。そして、ルカの福音書10章には、イエス様をもてなすのに忙しく働いている姉のマルタが、何もしないでイエス様のそばで話を聞いている妹のマリアに腹を立てた出来事が記録されています。そこでイエス様は「41 マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
マルタのイエス様への愛の表現は「他人」「客人」に対する礼儀、礼節と同じでした。イエス様が私たちに求めている「愛」は、もっと個人的なもの、もっと親密なものであることが分かります。ユダヤ教においても、律法に定められた方法で礼拝をささげること、カトリック教会では一切間違うことなく聖体祭儀(聖餐式)を執り行うことが大切にされています。しかし、イエス様が私たちに求めている愛の行為は、決して儀礼的なものではないのです。
預言者イザヤを通して神様はこのように語られています。「13この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」(イザヤ29:13)
ヨハネの福音書にはマリアにを非難した弟子はイスカリオテのユダであったと書かれています。彼の発言は一つの「正論」でした。しかし彼の正論は、決してイエス様への愛から出たものでも、貧しい人への愛から出たものでもなかったことが、後の行動から明らかなのです。
イエス様の前では「どうしても必要なこと」は一つだけです。それは、マリアのようにイエス様を愛することです。あなたが大切にしていること、マリア(イエス様)が大切にしていることに「ズレ」はありませんか?
ライフチャーチ 大谷信道


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