デイリーディボーション 8月5日(水)

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デイリーディボーション 8月5日(水)

2020年8月5日(水)
へブル人への手紙7:11-17 11さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。12祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、13私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。14私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。15もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。16その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。17この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
【ポイント】 ①大祭司イエス・キリストについての説明は難しいけれど・・・ その3 「もし、レビ系の祭司は無意味だったとしたら、神様は最初からメルキゼデクを継ぐ祭司を起こせばよかったのではないか。」と考える方もいらっしゃるでしょう。もっと言えば、神様は、出エジプトの際にイエス・キリストのような救い主をお立てになることができたはずであると考えることできます。
しかし、律法が与えられることがなければ、イスラエルの民(人類)は、人間の罪について知ることはできなかったでしょう。人間の罪は、動物の血(いのち)によってしか贖われないことを知らなければ、人間は罪の深刻さに気付くこともなかったことでしょう(参:ローマ7:7)。律法が与えられたからこそ、人間に必要なもは、命令として律法の戒めを表面的に守ることではなく、神様の愛を知った者が、誰からも強制されずに神様に喜ばれること選び取っていくこと、つまり神様を愛することであることを知ることができたのです(参:ヨハネ14:15)。そして聖書では、そのような生き方を「信仰」と呼んでいるわけです。そのような意味で、神様の計画(神様の作られた歴史)にはすべて意味があり、無駄は一つ物なかったのです。
それでは、イエス様が与えられる前の人類の歩みはすべて空しいものであり、そこには救いはなかったのでしょうか。彼らは、実験動物のように用いられ、後の世の人々の救いのために犠牲になったのでしょうか。決してそのようなことはありません。大切なことは、律法が与えられた後にも、律法が与えられる前にも「信仰」によって生きた人々がいるということです。11章で、その点について詳しく触れられますが、おそらく、聖書に記録されていないけれども、信仰によって生きた人々は大勢いたはずです。つまり、形骸化してしまった宗教システム(祭司職)とは関係なく、アブラハム、モーセに啓示された真の神様を愛し、信頼し生き続けた人々が大勢いるということです。
ライフチャーチ 大谷信道


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