デイリーディボーション 8月6日(火)

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デイリーディボーション 8月6日(火)

2019年8月6日(火)
マルコの福音書 14:10-11 10ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。11彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。
【ポイント】 ① イエス様を愛さなかったユダ 高価なナルドの香油を注いでイエス様を愛したマリア。イエス様を愛さず金で売り渡したユダ。非常に対照的ですね。それでは、ユダは最初からイエス様を愛するつもりも、従うつもりもなく、金儲けの目的でイエス様についてきたのでしょうか。恐らくそうではありません。または、神様がユダを裏切るように仕向け、ユダはその運命に逆らうことができなかったのでしょうか。それも違います。ヤコブの手紙1章に次のように書かれているからです。「13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
ユダは、イエス様を愛することよりも、自分の欲求、欲望を満たすことを選んでしまったのです。ヤコブが教えているように、ユダは「自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑された」のです。結果として、イエス様を愛したい、従っていきたいという思いがありながらも、自分の欲を満たすことを優先してしまったのです。残念ながら、私たちクリスチャンの中にも、ユダヤのような中途半端な信じ方、従い方の状態から成長しないままで何年もクリスチャン生活をしている人が少なくないのです。つまり、「あなたはイエス様を信じますか?」という質問には「はい!」と答えるけれども、例えば、1週間のうちの一日を主のために捧げること、収入の十分の一をささげることなどの、犠牲や痛みを覚えることについては「いい加減」なクリスチャンです。
マリアが香油をささげる姿を見れば、マリアがイエス様を心から愛していたことが分かります。一方、ユダヤの裏切りを見れば、ユダのイエス様への愛が中途半端でいい加減なものだったことが分かります。同じ視点で、自分の信仰の歩みを見てみましょう。そこに純粋な愛を見ることができるでしょうか。
ユダは自分で自分の命を絶ってしまいましたから、悔い改めのチャンスを自分で捨てることになってしまいました。そうでなければ、イエス様を真剣に愛する歩みに立ち返ることができたはずです。私たちには、常にそのチャンスがあります。様々な誘惑や葛藤を覚えながらも、イエス様を愛する歩みを選び取っていこうではありませんか。
ライフチャーチ 大谷信道


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