デイリーディボーション 8月9日(水)

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デイリーディボーション 8月9日(水)

2017年8月9日(水)

【通読】
マタイの福音書 14:6-12
6たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。7それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。8ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」9王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。10彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。11そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。12それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

【ポイント】
①神様の御心を行なう
ヘロデは自分がバプテスマのヨハネを処刑したことに大きな罪責感を抱いていたと思われます。14章2節で「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」とイエス様がヨハネのよみがえりだと異常なほどに恐れている様子からそのことがわかります。ヘロデは自分が神様の前で罪を犯したと自覚していたのです。

神様の前で正しくないことを行なう時に、私たちはその自覚を持っていることが多いと思います。その罪とは、「神様の御心」を行なうことよりも「自分のしたいこと」を優先させることです。(もちろん、「自分のしたいこと」と「神様の御心」が一致している場合もあります。)ヘロデのように明らかに律法を犯すようなことをしていなくても、「神様を愛すること」、「隣人を愛すること」(マタイ22章)というイエス様の戒めに背いてしまうことがあるでしょう。その行いが神様を悲しませ、隣人を傷つけることも問題なのですが、もう一つの問題は、罪を犯した本人が、場合によってはヘロデのように精神を冒されてしまうほど罪責感に苦しむことです。

私たちクリスチャンの目標は、罪を犯さなくなることです。しかし、私たちは罪の性質を完全に排除することはできません。クリスチャンになった後も罪を犯し続けてしまうのです。ですから、罪を犯してしまったとき、罪の意識に苦しむ時に、正しい対処を知っている必要があります。使徒ヨハネは1ヨハネ1章でこのように教えています。「
8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」信仰決心のときだけでなく、信仰の歩みを始めた後も、神様の前に罪を告白し、赦し続けていただくことが大切なのです。自分の罪を認めることは心に痛みを覚える作業ですが、その先には神様の赦しと心の平安が待っているのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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