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2017年9月5日(火)
【通読】
マタイの福音書 17:19-21
19そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。21[ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。]」
【ポイント】
①「どんなことでも」とは?
前後の文脈を無視して、20節だけを抜き出して「信じれば何事も可能だ!」と教える人が多くいるようです。しかし、私自身は「御心であれば」という条件を文脈に見出すべきであると考えます。昨日も学んだように、悪霊を追い出し、病をいやすことはイエス様が12弟子に命令されたことです。イエス様はご自分の福音宣教の働きのために、つまり、ナザレ出身のご自分がキリストであることを証しする目的のために、12弟子に悪霊を追い出し、病をいやす権威を授けられたのです。ですから、弟子たちがイエス様の御名によっていやしを行なうことは、イエス様の御心であることは100%明らかなのです。そのような文脈の中で「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と言われたのです。
②21節は後に書き加えられた可能性大
21節には[]がつけられていますね。それは、「信頼できる写本では抜けている文章です」という意味なのです。聖書によっては完全に省いているものあります(英語のESV)。残念ながら、それがたとえ素晴らしい教えのように見えたとしても、聖書が書かれた時点で記されていない可能性がある文章、つまり「神のことば」でない可能性がある文章から真剣に聞く必要はないと考えるのです。
つまり、箇所を読んで、病のいやしのために、極端な断食、祈りを行ったとしても、聖書はそのような行為がいやしを保証するものだとは決して教えていないということになるわけです。自分の家族、友人が病に苦しんでいるのを見る時、どのような犠牲をはらってでもいやしてもらいたいと思うのが、私たちの普通の感覚です。しかし、神様は私たちのニーズに応えるのではなく、ご自身が必要だと判断された時に、つまり、御心によっていやしを行われるのです。パウロは自分の体験からこのように教えています。
2コリント12章
7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ライフチャーチ
大谷信道