デイリーディボーション 9月11日(水)

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デイリーディボーション 9月11日(水)

2019年9月11日(水)
マルコの福音書 16:1-6 1さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
【ポイント】 ①イエス様の復活の意味 もし、イエス様の復活がなかったとしたら、全世界のキリスト教会はその存在理由を失うことになります。なぜなら、イエス様の神聖(イエス様が神であるということ)という信仰の根拠を失うからです。もし、イエス様が十字架の前に「自分は預言者である」と言っていたのであれば、イエス様はエリヤやエリシャのように偉大な預言者として覚えられたことでしょう。しかし、イエス様はご自分が「神と同じものである」と公言されていたので、十字架で死んだままであったとしたら、イエス様のことばに偽りがあったという証拠になってしまい、イエス様の言動すべてに疑問符がつき、言うまでもなく「神聖」も否定されることになるのです。
私たちがイエスを「キリスト」と呼ぶのは、弟子たちがイエス様の復活を事実として確認されたからであり、イエス様が神として礼拝されるのも、弟子たちが復活のイエス様に直接で出会ったからなのです。
イエス様の復活の事実がなければ、弟子たちが命懸けで伝道することもなければ、福音書が書かれることもなかったはずです。弟子たちがバラバラにされてしまった十字架の直前の状態のままで終わっていたはずです。
ライフチャーチ 大谷信道


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