デイリーディボーション 9月12日(土)

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デイリーディボーション 9月12日(土)

2020年9月12日(土)
へブル人への手紙 11:31-37 31信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。32これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。33彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、34火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。35女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。36また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、37また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、38――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。39この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
【ポイント】 ①神様の約束に「確信」が持てる理由は? 旧約聖書の時代にも、神様の約束を信じ、神様の計画に参加し、神様に従順に生きた人々は「信仰に生きた人々」として称賛されたのです(ヘブル11:2)。彼らは、イエス様によって明らかにされた「信仰による義」という観点から見ても、神様の前に「義」とされる人々なのです。つまり「信仰による義」は、パウロが考え出した新約聖書時代の神学的な理論などではなく、天地創造以来の真理であるということです。
それでは、イエス・キリストの福音を聞くチャンスがある新約時代の人々と、それ以前の旧約時代の人々の違いは何でしょうか。まさに、この点こそが、ヘブル書の著者が11章で伝えようとしていることなのです。つまり、イエス・キリストの福音を聞いた者は、神様の約束(計画)について、100%知ることができ、地上においては実現しない神様の約束の成就について「確信」を持つことができるということです。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」(ヘブル9:15)旧約時代に信仰の人として生きた人々は、キリストによる完全な啓示を見ずに、また、自分が生きている間に神様の約束が成就することも見ないまま、、地上を去っていきながら、それでも神様の約束を信じ続けていたのです。ですから、彼らはなおさら賞賛されるのです。
まとめると、11章1節の「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」というみことばの「望んでいることがら」とは先の9章15節のことばを使えば「召された者たちが永遠の資産の約束を受けること」なのです。そして、「望んでいる事がら」に確信を持つことができるのは、「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現した」からなのです。
ただ、1点だけ忘れてはならないポイントがあります。それは、「旧約時代に信仰に生きた人々」と「イエス・キリストを信じる者」の共通点です。そのポイントとは、私たちが生きている間(イエス様の再臨前・肉体の寿命が尽きる前)の地上においては、神様の計画が目に見える形で成就しないということです。だからこそ、「信仰」が求められているのです。地上において自分の夢や幸せが実現することが信仰の醍醐味だと思い込んでいる人は、いつの間にか刷り込まれてしまった間違った「信仰観・宗教観」を捨てることが求められます。この点においては、旧約の人々も、私たちクリスチャンも同じなのです。同じだからこそ、同じ信仰が求められているのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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