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2023年9月13日(水)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 1:23-24 23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。25なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
①救いとは何かを考える 多くのクリスチャンが福音とは「イエス・キリストを救い主として信じれば救われること」と理解していると思います。それは、決して間違いではないのですが、それだけだと福音とは、「救われる方法」「天国に行く方法」についての単なる説明でしかないことに気が付かなければなりません。福音が良い知らせである理由は、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という、ある意味「とってもお得でお手軽」な救いの方法であるからではないのです。残念ながら、多くの宣教師や牧師は、救いの方法としての福音を伝え、「イエス・キリストが救い主であると信じれば救われ、天国に行ける」という救いの方法を受け入れた人に「あなたは信仰によって救われました!」などと言ってしまうのです。
パウロが「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。ヨハネ3章16節の前半を見てみましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」そうです。パウロは、救いの方法ではなく「神様はあなたを愛している」という事実を伝えたのです。繰り返し学んでいますが、福音であれ、聖書のどのような教えも、神様の愛を抜いてしまったら、そこには何も残らないことを知らなくてはいけません。「結婚するための方法」についてどれほど熱心に調べ、勉強したとしても、自分を愛する相手を見つけ、自分のその人を愛する決意をしなければ、または誰かを愛し、相手が自分の愛する決意をしなければ、結婚は実現しないのです。救いについても同じなのです。その本質が神様との愛の関係なので、救いの方法をどれほど詳しく研究したとしても、そこに神様との愛の関係が無ければ、救いは実現しないのです。
ところが、この世の人は何かを達成するための「方法」「ノウハウ」を知ることが大好きなのです。さらに、何かを達成するために努力したり、他の人と競争することが大好きなのです。努力を重ねた者が成功を手にするという考え方が公平で、正しく、美しい生き方とさえ感じてしまうのです。ですから、神様の愛と恵みによって救われるという福音は、不公平で、不正で、陳腐な考え方だと感じるひとが多いのです。
「救い」は、神様からの愛に応答し、神様との愛の関係の中に導き入れられることですから、上で述べたような努力や競争は不必要ですし、無意味なのです。多くの人にはバカバカしく思えることなのですが、パウロのように命を懸けてそれに取り組んだ人は、人間の真の幸せ、平安、満足は、人間の努力によって獲得することは不可能であるという結論に至るのです。
ライフチャーチ 大谷 信道