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2022年9月14日(水)
ローマ人への手紙 1章28節ー2章6-11節 6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。11神にはえこひいきなどはないからです。
【ポイント】 ①キリストの愛による一致を目指す 神様の前で「善」を理由は何でしょうか?神様からの好意をえるため?神様の前で義と認められるため?「善」を行う理由の回答の中に自分と神様しかでてこない人は、「自分中心の信仰」「ご利益宗教的信仰」に陥っている可能性が高いと思います。
「善行」は究極的には神様のために行うわけですが、生活の中での具体的な行為は「神様」に対してだけではなく「隣人」に対して行うものです。神様に対する直接的な「善行」は、不品行を行わず、偶像礼拝をせず、形だけの礼拝をせず、霊とまこととをもって神様を愛し、仕え、ささげ、祈り、礼拝することでしょう。しかし、一般的な概念から言っても、それらを「善行」と呼ぶことはありませんね。「善行」とは、隣人に対して行う、隣人のためになる良い行ないが中心になるはずです。神様が私たちの求められる「善行」とは、神様と隣人の両方に対して行われる良い行ないなのです。
しかし、最初に触れたように、神様と隣人に対する「善行」の目的は、自分が神様から義と認められたり、ほめられたりすることではありません。神様が私たちに善行を求められる目的は、私たちが神様と隣人との間に愛の関係が築かれることを求められているからです。善行とは、神様とい隣人に対する愛の実践であり、その先にはキリストの愛による一致があるのです。そして、この状態ことそが「神の国」の姿なのです。神様は、愛による一致の中でしか真の平安と幸福を体験することができない存在として人間を創造されたのです。
不品行、偶像礼拝、律法違反、さらにイエス様の時代のパリサイ人・律法学者のような律法主義の蔓延の本質的は問題は、それらが愛の一致を破壊するものだということなのです。神様の御心は非常に単純なものです。神様は、私たちが「自分のためのご利益(欲望)」や「罰への不安」などからではなく、自らの自由な意志で神様を愛し、隣人を愛する者となることを望まれているのです。不品行は肉体的な欲求、偶像礼拝は精神的な欲求を満たすことはあっても、そこには常に競争、奪い合い、妬み、嫉みが付きまとうので、キリストの愛による一致は築かれないのです。この単純な神様の御心について、理解していないクリスチャンが多いのではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道